来ないなら、迎えに行っておやりよ。名も知らぬ翁はそう言って、人のいい顔で笑った。
目障りなら、消してしまえばいい。そう言ったのは、誰だったろうか。
寝苦しさにもがこうとして体が動かず、幸村は不快感に呻いた。まるで何者かに喉を絞められているようだ。
次第に喉の圧迫感がはっきりしてくる。無意識に首元に伸ばした手にひやりとした何かが触れ、浅い眠りの狭間を彷徨っていた意識が一気に覚醒した。
「っ……! が、」
目を開けると、視界に真っ黒い影が映る。腹の上にのしかかって、両手で首を絞めているのだ。幸村は必死で暴れた。首にかかる手をかきむしり、両足をばたつかせ蹴りあげる。膝が脾腹をしたたか蹴りあげ、のしかかった人物が僅かに怯んだ。その隙に男を振り落とし、転がるように畳の上に逃れた。
ぜえぜえと肩で息をしながら、しまったと思う。咄嗟に部屋の奥に転がり込んでしまった。これでは逃げ場がない。
開け放しの窓辺から差し込む月明かりに、男の髪が赤く光った。
佐助が幸村の夜具の上にいた。その姿は普段と何ら変わりない。しかしその手が主の喉を絞めていた。
「は……ッ、な、んの……!」
真似だ、怒鳴りつけようとして喉がひどくいがみ、たまらず咽こむ。突然なんだというのだ。拾ってやったと恩を押し付ける気はないが、文句の一つも言ったことのない男の突然の乱心には腹も立つ。不満があるなら夕餉の席にでも言ってくれれば、いいように図ろうに!
音もなく立ち上がった佐助が距離を詰める。ふらりとした足取りは覚束ないのに、まるで闇を滑るようにほんの一息のうちに目の前にいてぎょっとする。
「ひどいひどい俺の何が悪かったの。待ってたのにずっと、人が横で花見するのを見ながら、ずっと旦那のこと待ってたのに」
うわごとのように呟き続ける、何かに憑かれたような様子は、初めて会った時のことを彷彿させた。花見だとか、待っていたとか、何を言っているのか分からない。幸村を誰かと勘違いしているのか。ただ、背筋を冷たい物がかけ上がっていく。今の佐助はとても正気とは思えない。
思わず後ずさって、いくらもしないうちに壁に背をぶつける。
「早くちゃんと帰ってきてよ、こんな器だけじゃなくて魂まで」
旦那、と、呟く声はひどく甘やかだ。幸村には、手代にそんな声で呼ばれる覚えがまるでない。
のびてきた腕にびくりと身を竦める。動けない幸村の頬を冷たい両手が包み、至近距離で切れ長の瞳がせつなげに細められる。
「ね、旦那」
視線は幸村に向けながら、その眼は幸村を見ていない。何かを透かし見ようとしているかのような、遠くを見るようなまなざし。いったい誰を? 亡くしたと言っていた弟だろうか。初めて会ったときと同じだ、きっと寝ぼけて幻を見ているのだ。
佐助を正気に戻してやるべく、幸村は狂気をはらんだその瞳をできるだけまっすぐに見詰め返す。視線は絡まない。
「佐助、おれは」
「待ってる、から。今度はちゃんと、あの続きから誘ってよ。きっとだよ」
言いかけた言葉は通じぬまま、吐息を喰われた。
「んむッ!?」
ぬるりと入り込んできた舌先が人のものとは思えぬほど冷たい。口内で蠢く毎、体が芯から冷えきっていく。全身から抵抗する力が抜けていく感覚。このままではいけないと思うのに、魂を引きずり出されるような感覚に抗えない。
「……ッ、んん……っ!」
暴れる腕も足も、次第に自由が利かなくなっていくのが自分で分かる。蹴りあげる足が上がらなくなり、拳に力が入らなくなり、終いに縋るように肩に食い込ませた指先も、ずるずると衣を滑り落ちる。
不思議と恐怖はなかった。この男が自分に危害を加えるはずがないのだ。ずっと昔から、常にそうだった。
「……はっ、ぁ……」
弱々しく喘いだ口の端から涎が伝う。だが、唾を飲み込むことさえ今はひどく大儀だった。呼吸する力まで失いかけているのか、うまく息ができない。
だんな、と繰り返す佐助の声は今にも泣きだしそう。できる限りの浅い息を繰り返しながら、ぼやける視界に必死で目を凝らす。間近にあった瞳は猫のように裂けていた。それであの晩、人ならざる者のようだと感じたのを思い出したが、その顔が辛そうに歪められていたから、何者であろうとどうでもよいと思ってしまった。
そんな顔をさせたいのではないのだ。そんな昔の約束に縛られる必要はないのに、いったいどれだけの時を待ち続けていたのだろう。いつもいつも、一途でけなげな、 いとしい しのび
「ばかものが」
目を開けているのも億劫な中、動かぬ舌で無理やり言葉を吐き捨てる。たった一言で息が切れて、幸村は大きく息をついた。それはひどくかすれて聞き取りにくいものだったろうが、すすり泣きのようなうわごとが一瞬途切れた。
あの約束は果たしてやれない。そうするには時が経ち過ぎた。
忠実すぎる忍相手にあんな約束を残した自分にも落ち度はあるが、たったそれだけのために妖になり下がってまで待ち続けているなどと、誰が思おうか。輪廻の輪に乗り損ね、止まったままの時の中で戻るかも分からぬ相手を待ち続けるなど、愚かしい。
「何度でも、誘うてやるわ」
互いに分からなければ、それでよい。だからな、佐助。
「生まれ変わって、出直してこい」
はたり、
顔に何か落ちてきた。熱い雫が頬で弾けて流れる。なぜか先ほどよりはっきりした視界に、佐助の泣き顔があった。流れる涙をぬぐってやりたいと思うと、動かなかったはずの腕が上がった。温かい頬に添えた指先を、次々に伝う雫が濡らした。人のと同じように熱かった。
「……さす、け?」
もう出ないと思っていた声が喉を震わせた。少しかすれているのは首を絞められていたせいだ。だけどもう苦しくはない。息も自分でできる。
ずいぶんと偉そうな物言いをしていたのは覚えていた。だが自分がそれをどういう意図で言ったのか、幸村にはもう思い出せなかった。ただいとしい気持ちだけが胸に残っている。無言で涙を流していた手代が、ひどいよ、と呻った。
「ひどいよ、さんざん待たせておいて、ここまできて、諦めろっていうの。身勝手にもほどがあるでしょ」
ひどいひどいと、咽び泣きながら罵る、普段の彼らしからぬ子供じみた行動に、幸村は戸惑うしかない。自分は彼をひどく泣かせるようなひどいことをしたのだろうか。ただ責めを負うているようだから、手をのばして額に掛かる佐助の赤い髪をかきあげ、撫でつけてやりながら、宥めるように囁く。
「泣くな、佐助、泣くな。ああ、すまななんだな。ついでなどとはもう言わぬ、二人で花見しようぞ」
泣きじゃくる頭を引きよせて抱きしめていると、体の芯が冷え切っているのを思い出した。幼い子供にするように頭をなでてやりながら、泣き声が少し落ち着いてくるのを見計らって、佐助ごとばさりと掛布で巻き込んでしまった。手代は驚いて涙が引っ込んだようだ。不審げな目を向けてくる。
「……なに、するの」
「どういうわけだか、寒くてかなわぬのだ。暖になってくれ」
なに初めてでもあるまいと悪びれず笑いかけると、佐助は涙の残る顔で困ったように笑った。
抵抗の止んだ華奢な体躯を抱きしめる。甘い香りがした。きっと桜花はこんな匂いなのだろうと、ぼんやり思った。
≪ 品書 ≫
武将の旦那≒呉服屋の旦那
全くおんなじじゃないと嫌な忍。旦那相手だと感情を繕えない佐助がとても可愛いと
多分あとがきかどこかで補足します……orz