腹のあたりがぽかりと寂しくなった感覚に、ふと意識が浮上した。抱きしめていた体がない。枕元に寝巻姿の佐助がいて、寝ぼけ眼で見上げると繊細な指が髪を梳いた。寝入りばなに感じていた体の芯の冷たさは既になく、ぬくまった布団が心地よい眠気を誘う。

「ごめんね」

 穏やかな声が謝るのを、半分夢の中にいるような感覚で聞いた。何に対する謝罪だか、うとうとしている幸村には分からない。
 髪をなでていた指が離れ、眠りに落ちかけていた意識が僅かに引き戻される。微かな音を立てて襖が開く。重い瞼を持ち上げると、手代の細い後姿が見えた。さすけ、と、呼んだつもりが音にならなかった。けれど佐助は足を止める。どこにゆく、落ちそうな瞼と戦いながら微かに唇を動かす。
 佐助は答えなかった。開いた襖から半分廊下に出ながら、振り返ってにこりと笑った。人懐こい笑顔になぜか安心して、幸村は目を閉じる。丁寧に襖を閉める微かな音が聞こえた。

 それきり、佐助は帰ってこなかった。





 淡い月明かりと灯の下、満開の桜の大木に花筵を敷く人々の笑い声が響く。その中心にいるのは、花見や祭りと聞けばどこからかやってくる風来坊だ。奇抜な衣装に身を包み、体格も立派な偉丈夫とくれば何もせずとも目立つことこの上ない。そんな派手な男が小猿を連れて芸を披露するものだから、場の注目を一身に集めている。
 幸村は政宗が約束通り持ってきたまろやかな美酒に舌鼓をうちながら、その豪壮ぶりに、感心してというより呆気にとられて呟いた。

「相変わらず、派手な男でござるなぁ」
「全くだ。……ったく、どこから嗅ぎつけてきやんのか」

 その隣で杯を傾けながら、政宗も頷く。口調は呆れた風ではあるが、機嫌は良い。この傾奇者、根は悪い男ではないし、全国を旅しているだけあって身の振る舞いも軽快で、なんだかんだで政宗とは気が合うのだ。もっとも幸村には、そういう身の軽さはついていけない部分であったが。
 小猿の芸にはいまいち興味がわかず、楽しげな政宗に生返事を返しながら飲みかけの杯に勝手に甘い酒を注ぎ足した。量も限られているというから、よくよく味わっておかねば。

 遠慮のえの字もない幸村に政宗は一寸嫌な顔をしたが、何か思い出したように口調を変えた。
「そういえば、紹介したいやつがいるって言ってたよな。ちょくちょく話題にのぼってた、さすけとやらか?」
「ん、ああ、そのことでござるが」
 杯を離し口を開きかけた時、脇から幸村を呼ぶ声があった。

 振り返ると、何度か店に来たことのある娘だ。幸村が顔を覚えているくらいだから、かなりの頻度で来ていたのだろう。来るたびにあまり高くない小物を買っていってくれた記憶がある。娘は政宗に気付くと僅かに怯んだようだったが、政宗が会話の順番を譲ると軽く会釈をして、幸村に向き直った。
「幸さん、佐助さんはどうなすったんです? お店の方にも見えなかったみたいですけれど」
 何か要りようでござったかと問えば、娘はいえいえそうじゃありません、ちょっと前を通りかかったから、のぞいてみただけですよと手を振る。まさかご病気とか、と急に不安気な顔をするのに、幸村は安心させるように笑いかけた。
「佐助なら、急に行く所ができたと、行ってしまった」
 傍らで聞くともなく聞いていたらしい政宗が、意外そうに片眉を上げた。だが娘の反応はもっと大袈裟で、目をまん丸にして驚いたと思うと今度はふくれっつらになる。ころころと変わる表情が愛らしい、などと呑気に構えていると、思いもよらぬ大声で怒られた。

「もう、どうしてお止めしてくださらなかったんです!」
「す、すまぬ」

 あまりの剣幕に思わず頭を下げてしまった。すると娘はなぜかまた眼を丸くして、思わず、というふうに吹きだした。
「もう、幸さんったら。そんなに真面目に謝られちゃ、いやですよ。ああおかしい」
 冗談ですよ、と朗らかに笑うのにほっとして、幸村も表情を緩める。
「佐助はおらぬが、御用があればまたおいでくだされ」
「もちろん、伺いますよ」
 笑みにのせて言えば、娘もにこやかに頷いた。

「幸さんにお会いしにね」

 言われた意味を理解しないうちに、娘はいたずらっぽい笑みを残して立ち去っていた。夜闇に淡い花弁が舞う中、しとやかに去っていく鮮やかな小袖の後姿が美しい。
 呆然と取り残された幸村の隣で、ひゅう、と政宗が低く口笛を吹いた。

「やるじゃねえか」
「どういう意味か!?」
 そういう意味だよこの色男、と嫌味な笑顔でつつかれて、幸村は頭を抱えた。この手の軽口は、非常に困る。政宗はそれを知って面白がっているのだから、引き際もあざやかに一向に進まない話を元に戻した。

「しかし、残念だな。お前が気に入ってるようだったから、どんな奴かと思ってたのに」
 本当に残念そうな政宗に、幸村は神妙に頭を下げた。この席で紹介するつもりで、政宗にもそう言っていたのだ。それにしても、と政宗は訝しげな顔をする。
「ずいぶん急じゃねえか。だいぶ長いこと居座ってたんだろ? 用があるなら、もっと早くに暇乞いをするはずだが」
「心残りはござるが、いたしかたあるまい」
 幸村は気にせぬ調子でまた杯を傾けた。政宗はまだ疑わしげに問いを重ねる。

「礼は何かあったのか?」
「いや」
「何の用だって?」
「聞いておらぬ」
「結局どこの人間だったんだ?」
「知らぬ」
「おい!」
 そんな怪しげな奴を置いてたのかよ、と政宗はもう呆れ顔だ。よく寝首をかかれなかったな、と感心したように言われ、幸村は不機嫌に鼻を鳴らした。怪しかろうとなんだろうと、初めからやけに気配が馴染んだし、むこうも当然の顔をしてよく働いた。それでよいではないかと思う。
 あの晩のことは正直あまり覚えていないのだが、命を取られることもなかったのだから問題はない。


「おーい、独眼竜! こっちで飲み比べするけど、アンタもどうだい!」
 向こうで派手な男が呼んでいる。政宗はまだ何か問いた気な顔をしていたが、おう今行く、とすぐさま答えた。一緒に来るだろ、という視線を向けられ、幸村は座り込んだまま異国の美酒の瓶を抱きしめた。
「拙者はこちらがようござる」
 普段なら喜んで行く所だが、今はこれが飲みたい。子どものような行動に、振り返った政宗は呆れたような顔をした。だが、こうなったらてこでも動かないのもそれなりに長い付き合いで知っている。友人は、仕方ないとばかり溜息をついて祭りの中心に出向いていった。「全部飲むんじゃねえぞ」としっかり釘を刺すのも忘れずに。


 一人になると、幸村はすぐさま杯を満たした。ずいぶん強い酒のようだから飲み尽くすつもりはないが、飲んでしまったらその時はその時だ。
 桜を肴に飲みながら、鮮やかな小袖を着た娘の柔らかな影も美しかったが、あの赤毛の男ほどではないと、酔いが回った頭でぼんやりと考える。初めて会うた夜闇の中でさえ、妖と見紛うようだった。華吹雪の中で見れば、さぞや美しかろう。
 
「次も、誘うてやらねばな」
 きっとだよ、約束だよと念を押す声が聞こえた気がして、幸村は闇に向かって大きく頷いてやった。
 呪いをとかれた花枝垂れが、それはみごとに咲き誇っている。




 品書



私の頭の中でしか話がつながっていない気がとってもします。続きものは一息に書き上げないといけません。構想の粗が暴露する。
何となく薄暗いままですが、これでひとまず完結です。お付き合いいただき、ありがとうございました。