とけぬと思っていたうらみが ゆるゆるとほどけていく。
あの枝垂れ桜が蕾をつけた。
幸村の記憶の中では一度も花をつけたことのない木が、今年に限ってどういうわけだろうかと皆首をひねったが、枝ぶりも立派な大樹が満開の花を咲かせればさぞや見事だろうと、この異例を喜んでいた。幸村も気の早い飲み仲間から花見酒を誘われて、同じように楽しみにしていた。
だが、佐助はといえばそんな世間の華やぎには全く無関心だ。
佐助には一般の手代ほどではないが心ばかりの手間賃は渡している。だがどうやらそれは全て幸村の腹に還元されているらしい。
小物が増えていることもないし、一人で飲みに出ている気配もない。なにしろ昼間は主がほったらかしにする店を切り盛りするのに忙しい。夜は夜で帳簿をつけたり幸村の茶を汲んだりと何かしら働いている。たまには息を抜いたらどうだと誘ってみると、佐助は疲れたように肩を落とし、
「そう思うなら、少しはちゃんとしてくださいよ」
と、まるで女房のようなことを言う。
無論、それは店に出て娘の相手をしてみろという意味だから、幸村は聞こえなかったふりをしてすたこら逃げだすのだ。
だが自分はともかく佐助なら、あれだけ毎日囲まれていれば好いたおなごの一人や二人(二人もいたら問題だが)いてもおかしくはない。
折角の季節なのだから、誘って花見にでも行けばよいのだと思う。言ってくれれば一日くらい店を閉めても問題ない。それとも何か具合が悪いことがあったろうかと考えて、合点した。
佐助は灯りの前で仕切り帳を広げ、真面目な顔でなにやら書き込んでいる。食うに困らなければ稼ぎにはまるで頓着しない旦那に代わり、この頃はそういったことに几帳面な佐助が家計を把握している。
綿入れの上に半纏を着こんでいるために、丸くなった影が襖に映っている。手代の体は、いつも驚くほど冷たい。血が通っていないのではないかと思われるほど冷え切っているから、冬の間幸村が使っていた半纏を半ば無理やり着せていた。猩々緋の鮮やかなそれは、やはり幸村よりもいくらか華奢な手代の身には余る。
幸村は飲みかけの湯呑を脇におくと、また急に佐助を呼びつけた。先ほど茶を用意させたばかりである。だが佐助は嫌な顔一つせず筆を置いた。
なんです、と問うてくるのを待たせて、奥からきちんと畳まれた布地を出してきた。怪訝な顔をする佐助の目の前でばさりと広げると、それは立派な着物になった。灯りに照らされて赤く煌く髪とは逆に濃い色の衣はここではほとんど黒にしか見えないが、明るい陽の下で見れば濃緑をしているはずだ。
幸村は己の見立てに誤りがなかったことに満足げに頷いた。
「お前は肌が白いし、髪の色が明るいから、やはり落ち着いた深い色が似合う」
「なんなんです、急に」
「うん。これを、お前にやる」
佐助はまずぽかんと口を開け、次に切れ長の目を見開いた。
「そんな、こんな立派な着物、いただけませんよ」
「何を言う、お前とて付き合いもあろう。よそいきの一枚や二枚、持っていて悪いことはあるまい」
何を言っても佐助は頑として受け取ろうとしない。分不相応ですやめてください、そんな恩を着せなくてもずっとお手伝いしますから堪忍してくださいと、必死で言いつのる様子は特に気を遣ってのことでもないようだ。
拾ったばかりにやった小袖と前掛けが一張羅になっていた。それが恥ずかしくて誘えないのだと察していたのだが、どうやら違ったらしい。
「お心遣いは、ありがたいんですがね。生憎と、旦那が思うような相手なんて、いやしませんよ」
話を聞いた佐助は申し訳なさそうに、しかしどこかほっとした様子で上等の着物を押し返した。誘う相手もいなければ必要ないと言うつもりだ。折角この男に似合うよう仕立てたのに、袖を通してもらえないとはなんともつまらない。
「ならば、おれに付き合わぬか」
憮然として言うと、佐助は目を瞬いた。
幸村は常の奔放ぶりから服装も適当かと思いきや、その実着物はいつも質のいいものを身につけている。その旦那と並んで歩くには、やはり相応の身なりを整える必要がある。察しのいい佐助のこと、何も言わずともそれくらい気付いて整えてくるはずだ。
「だって、旦那は他の方のお誘いを受けて行くんでしょう。余計なのがついて行ったら、邪魔になります」
「どうせ宵からだ。それに、いい機会だから、お前も紹介したい」
いや、でも、とはっきりしない佐助に、いいから来い、花見をせねば春ではないと強引に滑らかな衣を持たせ、とどめとばかりにこりと笑ってみせる。
聡いこの男は、連れ回してあちらこちらで自慢したいだけだと、とうに気付いているのだろう。仕方ない、とばかりに受取って、曖昧に笑うだけだった。
≪ 品書 ≫
もうだいたいの人にはネタもオチも見え透いているかと(殴)