優しい夢を見た。
二度と会うことの叶わぬ人の幻を見た。
果たされなかった約束を思い出した。
ひらり、淡い花弁が散る。
男は佐助と名乗った。
あれから、濡れ鼠になったのを放っておくわけにもいかず、というて気を失っていてはどこの者かも聞き出せぬから、仕方なく自宅に連れ帰った。
濡れた着物を着替えさせ、布団に横たえてやったはいいが、氷のように冷たい体がなかなか温まらない。しばらく傍らでさすってやったりもしていたのが、いい加減酔いも回り面倒になってきて、同じ布団にもぐりこんで寝てしまったのだった。
目覚めた男は、ひどく驚いたようだった。折角のぬくい布団から起き抜けとは思えない身のこなしで飛びのいて、そのまま畳に額を打ちつける勢いで平謝りに謝りはじめたものだから、こちらの方が驚いた。
昨夜口走ったことは覚えていないようだった。突然倒れたのは、長いことろくな物を口にしていなかったせいだという。遠慮を押し切り白粥を与えてみると、椀に1杯あっという間に平らげた。
聞けば、身寄りはないという。行くあてもないというから、店に置くことにした。男は当然必死で辞退したが、幸村が、あてがないならどこにいても同じだろう、と強引に引きとめたのだ。一度拾ってしまった以上、放りだしてまた行き倒れられでもしたら寝覚めが悪い。
それに、興味をひかれた。もっといえば、気に入った。
それはほとんど直感のようなものだった。いくら傍若無人と称される幸村でも、ある程度の常識と礼節はわきまえている。たとえ酔っていたとしても初対面の相手の布団にもぐりこむなど普通はしない。だがこの男は、なぜかずっと昔から知っているような気がしたのだ。
置いてやると言っても、ただでとは言わない。働かざる者食うべからず。しっかり働いてもらうつもりだと言い渡すと、男はようやく承諾したのだった。
幸村は、大通りから一本逸れた静かな通りで小さな呉服屋を営んでいる。
腕が確かで趣味もよいとそこそこ評判で、客層もそれなりの身分の者が多かったから、食うには困らなかった。ただ、何もかも一人で切り盛りしているため、仕立ての仕事が入れば徹夜することも珍しくはない。
飯時には手伝いの女が出入りしていたが、仕事を手伝わせるものはいなかった。
提灯で照らした時もひどく赤く見えた佐助の髪は、白日の下で見れば橙のように明るい色をしていた。
初対面では物の怪かと思うたが、付き合ってみれば目端は利くし、場の空気をうまく読む。おまけに口が達者で愛想がいい。
反物は扱ったことがないと言うから、しばらくは身の回りの世話でもさせながら、空いた時間に教えようと考えていた。だが驚くほど覚えが早く、試しに店に出してみればすぐに人気者になった。
寄ってくるのは、主におなごである。
確かに佐助は男から見てもかなりの美丈夫。これで親しみやすければ人気も出ようものだ。客が増えれば稼ぎもそれだけ増えるのだから、客層が広がるのは本来喜ばしいことだ。
しかしこれまで店を訪れるのははっきりとした注文を持った客で、それも男ばかりだったので、特に入り用な物もなく頻繁に店に遊びに来る若い娘たちに幸村は困ってしまった。
「お前が番頭にいるだけで、商売繁盛だ」
店を閉めた奥の居の間で、佐助に淹れさせた茶をすすりながらぽろりとこぼした言葉に、佐助は怪訝な顔をした。この男は茶を淹れるのも上手い。まるでずっと昔からそうしてきたかのように、幸村の好みにぴたりとはまる茶を出してくる。
「何をおっしゃいますか。物がいいからですよ」
笑って返す佐助には、まったく偉ぶるところがない。
実際、佐助の方がはるかに商売上手であった。用もなくふらりと店にやってくる娘たちの相手をしながら、相手にそうと気付かれず、言葉巧みに買う気にさせてしまう。到底真似できぬ芸当だ。
これ以上なく有能でありながらそれを鼻にかけることもなく、それでいて立場が上の者に対しても言動に遠慮がないところが幸村は好きだった。
茶請けの羊羹にぐさりと串を刺しながら、ふふと笑いを洩らす。ちなみにその羊羹も佐助の選定で、近頃の幸村の気に入りとなっている。
「物だけでは客はつかぬ。近頃の客の大半は、お前の面が呼び寄せているとしか思えぬ」
「ツラって……、なら半数は旦那が目当てだと思いますがね」
旦那を盗み見ている娘が何人もいましたよ、と笑い半分に言われ、幸村は大仰に目をむいた。
有り得ない。愛想の一つも振りまかず、黙りこくって座っているだけの男の何がよいのだ。
「ああ、顔が赤いですよ、真田の旦那」
「な……っ、燭のせいだっ、馬鹿者!」
お前とて赤いわとやり返しても、佐助は笑うばかり。齢はそれほど変わらぬはずだが、おなごの扱い関しては佐助の方が何枚も上手のようだ。
佐助はひとしきり人の悪い笑みを浮かべて反応を楽しんでいるようだったが、幸村がすっかりむくれてしまうととりなすように声の調子を変えた。
「ところで、これだけ娘さんが来てくれるんだから、女向けの小物でも作ってみちゃあいかがです?」
「……ますますおなごが寄ってくるではないか」
嫌? 首を傾げて覗き込んでくる佐助はからかっている風もない。
純粋に稼ぎを考えての提案らしいそれに怒るに怒れず、恨めしげに睨むと、嫌とも言い切れずふいと横を向いた。
「おなご相手は、困る」
切実さ滲む言い訳めいた一言に、佐助が言葉を返すことはなかった。
寝る、短く言って腰を上げる幸村に合わせて、佐助も洗い物を片付けに立ち上がる。遠慮ないのは好ましいが、色恋ごとにまでずけずけと口をはさむのはいただけないと、涼やかな横顔に溜息をついた。
「そんなところまで、似ることないのにね」
その背を見送って一人呟いた、佐助の瞳孔が縦に裂けていることに、幸村は気付かない。
≪ 品書 ≫
佐助が人外フラグ。