月のない夜であった。
猫の子一匹いない暗闇の中、提灯を頼りに帰路を急ぐ男が一人。こぎれいな着物を嫌味なく着こなす姿からも、身分はそう悪くないと分かる。急ぎ足の背中で、一筋だけ長い髪が尻尾のように揺れている。
遅くなってしまった。友人で得意先の若旦那でもある男に誘われて、一杯ひっかけることになったまでは良かった。だが限度を知らぬ若者が一軒で満足するはずもなく、奢りだと言うて3軒、4軒と連れまわされるはめになってしまった。
なまじ酒に強いから性質が悪い。結局当人は酔い潰れ、立場上放っておくわけにもゆかず、店の方まで送り届けてきたのだった。
夜道を急ぎながら、幸村も熱い息を吐く。日が暮れればまだ冷える時期だが、今は酒のおかげで体の内からほかほかと温かい。この先の橋を渡ればもうすぐだ。
橋の傍には、一本の枝垂れ桜が植えられていた。小さな小屋なら二つほどはひとのみにしてしまいそうな律派な大木だったが、その花を見たものは誰もいなかった。春になっても花をつけぬのだ。
なぜ咲かないのか、幸村は知らない。枯木かと思えば夏になれば他の木と同じように葉を茂らせるから、なにがしかの呪いだと囁かれてもいた。人魂を見ただとか、おなごのすすり泣きを聞いたとかいう噂もある。そんな場所柄、昼間はともかく夜ともなれば近付く者は全くいなかった。
近くの家々もひっそりと息をひそめている。噂を信じているわけではないが、ほんの半刻前まで賑やかな飲み屋で騒いでいただけに、この静寂は何もなくとも無気味であった。
自分の足音の後ろに微かな足音がついてきている気がする。無論、気のせいだとは分かっている。だが振り返れば何とは言えぬが人ではない何かを見てしまいそうで、後ろを顧みることができなかった。
何を怯える。幸村は己を叱咤する。
いもしない物の怪などに怯えてなんとする。本当に恐ろしいのは、人を殺す野党や物盗りだ。しかし、黒々とした枝が見えてきたとき、幸村は思わず息をのんだ。
人がいる。
この闇夜に明かりも持たず、桜の前にぽつんと立っている人影は、一見、髪をおろした女のように見えた。体の線があまりに華奢だったからだ。だがよくよく見れば、腰つきも小袖から覗く腕も男のそれだ。
物取りにしては近付く幸村に対して反応があまりに薄かった。こちらは灯りを持っているだけ暗闇の中でよく目立つから、気付かれぬはずはない。
こんな刻限に、こんな場所でいったい何の用だろうか。
背を向けている男の表情は窺えない。気付かれぬなら放って通り過ぎてしまえばよかった。しかしそれが出来なかったのは、男の恰好に目が止まったからだった。
まだ寒いこの時期に、その身を包むのは薄手のひとえ。足下に目を凝らせば、裸足に草履も履いていない。だが乞食にしては泥に汚れた様子もなく、なにかの事情で着のみ着のまま飛び出してきたようにも見えた。つぎあてもない、なかなか上等の着物だ。家人が心配しているのではないか。
見も知らぬ他人にお節介を焼く性質ではないが、先ほども人を家まで送り届けてきた帰り、感覚としてはついでのようなものだった。
幸村は恐る恐る男に近づいた。河岸の草を踏んでも男は振り向かない。
「もし、」
驚かさぬよう控え目に声をかけると、男は僅かに肩を揺らした。そこで何を、という問いには、数呼吸の間があった。そして呟くように返された言葉は、はっきりした答えにはなっていなかった。
「……兄弟を、亡くしましてね」
「それは、すまぬことを聞いた。しかし、もう遅いゆえ――」
男が肩を震わせているのに気付き、幸村は言葉を切った。震えている? いや、
――笑っている。
ぎょっとした。思わず後ずさる。これはしくじったか、狂人に声をかけてしまったのやも知れぬ。
逃げた方がいいと思うのに、両足は根が生えたように動かない。ゆらり、男が振り返る。掲げた灯りに、男にしては白すぎる肌が闇の中で浮かび上がる。ざんばらの髪は、火に照らされたにしても異様なまでに赤い。
美しかった。
男を捕まえて言う言葉ではないが、それ以外の表現が思いつかなかった。怖いほどに整った顔立ち。狂気をはらんだ切れ長の瞳から、目をそらすことができない。恐怖ともつかぬ何かが背筋をざわざわと這い上ってくる。
化かされているのだろうか。そう思わずにいられぬほど現実離れした光景。
「桜が満開だった」
咲いたことのない桜の古木の前で、夢見るように呟く。次の瞬間、男の体がぐらりと傾いだ。
そのまま消え入ってしまうのではないかと思った。凄烈な凄艶な幻だったのではないか。
しかし派手な水音が上がった。それで幸村は我に返った。
「っ、おい!!」
この川は深くはないが、流れが速い。膝まで水につかれば足をとられる。加えて春先の冷たい水だ、落ちればただでは済むまい。
男は水に打たれながら浅瀬に突っ伏してぴくりともしない。慌てて駆け寄った。裾と膝を冷たい流れに濡らしながら抱き起すと、冷え切ってはいるが確かに人の感触だった。
その時になってようやく、男が妖ではないと確信できたのだ。
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またもや異色。さくらの日に間に合わず、季節ものにしそこねたのでのんびり痛々しくパラレル展開していく所存。