武田信玄と言えば、自ら軍配斧を取り、戦場においては兵たちに恐れられる猛将として名高いが、その豪勇もさることながら、武略に優れた智将としての顔も持つ。
 此度の戦では、残念ながら政宗が甲斐の虎の剛勇の部分に見えることができなかった、それだけのことだ。

 聞けば、劣勢かと思われていた伊達の主勢は、広い目で見れば優勢にことを進めていた、らしい。本陣まで突入されておいてどの口が言うかという話だが、とにかく、疑わしい部分はあれど、前線では甲斐の虎を引っぱり出すほどの善戦ぶりだったという。
 しかし、それは突如として背後に現れた軍勢によって崩された。
 武田の別動隊である。
 皆突貫する真っ赤な武士に目を引き付けられて、背後への警戒がおろそかになっていた。それで、武田の十八番の戦術にまんまと引っ掛かってしまったわけだ。あの武者の目の惹き方は本陣で刃を合わせた政宗も知るところだったから、周囲を責める気にはならなかった。

 結局、武田側から出された一時休戦の条件を伊達が呑んだ。事実上、他にとれる道などなかったのだ。退路は完全に断たれており、強引に押し通ろうとすれば、ただでさえ戦場で分散した戦力にさらに打撃を受けることになることは明白だった。武田も動きがとれぬ状況だったのは後で知ったが、いずれにせよ進退ならぬ状況であったことは間違いないから、一時的にせよ結ばざるを得なかったろう。

 甲府中の屋形に留め置かれていた政宗は、今は手持ちぶさたに閉め切られた部屋に座している。
 協定は滞りなく結ばれた。初めて顔を合わせた信玄は、若輩の政宗をないがしろにすることはなく、表向きは完璧に平等に扱った。しばしの間甲斐の地で養生してゆかれよ、と鷹揚に軍の滞在を許し、食料の提供まで申し出た。それを素直にありがたく受けられないのは、己がひねくれているのだろうか。
 いや。違う。政宗は信玄の強さを認めていない。そんな相手が、あたかも自分より格下であるかのように政宗を扱うのが気にくわないのだ。
 それでも政宗が表向きは大人しく施しを受けてこの地に留まっているのは、確かに消耗した軍を回復する目的のほかに、もうひとつ、個人的な理由も含まれていた。
 戦場で見えた赤い武士。
 奴を、一目見てみたい。
 締約の場には姿がなかった。あれほど目立つ男だ、見ればすぐにそれと分かる。しかし、屋敷の中であの男に出会う機会はこれまでのところ巡ってこなかった。そろそろ痺れを切らして抜け出したくなる頃合いだ。さて、どうするかと思案しているところ、襖の外に気配を感じて政宗は顔を上げた。
 一声かけられて向き直ると音もなく襖が開き、信玄の巨躯が室の畳を踏んだ。連れている小姓が将棋盤を抱えている。
「暇を持て余しているかと思うてな。一局いかがかな?」
 突然の誘いに、政宗は胡散そうな視線を隠しもしなかった。武田の将は確かに堂々たる風貌を備えている。しかし、突然そう親しげに声をかけられても信用できないのも確かだった。盤勝負をしに来たのではないのだ。
「お気遣い、感謝する」
 直接の否みはしなかったが、信玄は政宗が乗り気でないのを察して、ふむと顎をひとなですると、盤を脇に押しやった。それでも腰を据えて立ち去る気配はない。切り口を探るように政宗の顔を眺め、おもむろに口を開いた。

「そういえば、うちの若輩がずいぶんな無礼を働いたそうな。代わって詫びを申す」
 若輩――あの男だ、と、政宗は思わず聞き耳を立てた。途端、信玄の面白げな顔が目に入り、憮然として、あえて興味なさげに言葉を返す。
「Ah,no problem.こちらも楽しませてもらった。よい子弟をお持ちだ」
 しかし、さすがというべきか、老将は政宗の興味を引いた話題を見逃さなかった。

「会うてみるか?」

 思いがけぬ願ってもない言葉に、政宗は結局頷いたのだった。





 連れてこられたのは、なかなか立派な道場だった。
 今は両軍の怪我人の介抱に使っているらしいそこは、普段は多くの将兵の活気に包まれているのだろう。足を踏み入れるとすぐにこちらに視線が集まり、「お館様」「筆頭」と口々に声が上がる。信玄はそこにいた武田軍と思しき若者に声をかけた。
「幸村はおるか」
「あ……ハッ。奥で師範と手合わせをしておられます」
 呼んで参ります、と踵を返す男を思わず呼び止めた。上っ面を張りつけた退屈な面会よりも、戦いの中でそれに近い状況で見てみたいと思ったのだ。
「案内してくれ」
 突然呼びとめられた男は信玄を窺うように見、彼が頷いたのを目にすると、ためらいがちに頷いた。

 男の案内で奥に足を踏み入れた政宗は、肌を刺す緊張に驚愕した。
 空気が張り詰めている。
 一歩入って思わず息をつめる。先までの道場とは空気がまったく違う。まるで戦場だ。対峙するのは壮年の男性と若い男。その姿にほんの一瞬、胸が沸き立った。一目で分かる。纏う雰囲気、今日は一本の槍を両手で構えてはいるが、間違いない。戦場で自分に跳びかかってきた獣のようなやつだ。しかし、どこか違和感を覚えた。

 二人は微動だにせず睨み合っていたが、一方――やはり、幸村だ――が、先手を打って地を蹴る。繰り出す槍は、以前見た時とは違い、整然とした型に沿った動作だ。儀礼的な手合わせのように槍を合わせる動きには、一糸の乱れもない。出来のいい舞いでも見ているような気分にさせる、滑らかな打ち合いだ。
 意表を突かれ、落胆した。以前戦場で見えた時は、まさに獣のような本能に任せた変則的な攻撃を仕掛けてきたというのに、こんな演舞ならば誰にでもできる。あの時の赤い獣の正体は、こんなつまらない男だったのだろうか。

 つまらぬ見世物だ、と視線を逸らそうとした瞬間、流るる水のように安定していた残像に微妙なぶれをとらえた。それまでは耳に心地いだけだった剣戟に、ほんの僅かの不協和音が生じる。
 ともすれば見落としてしまいそうな一瞬。
 しかし、顔を戻した政宗の目に、それは次第にはっきりとした違和感として形を成した。見えていた流れが掻き乱れる。流れていたものが突然有り得ない方向に向きを変えたような、不愉快であるはずの不自然さ。しかし、ざわりと胸の奥が疼いた。
 また耳障りな不協和音が奏でられ、弾かれたように幸村が飛び退いた。地を滑る勢いを、槍でもって殺す。槍術の型にはない、してはいけないはずの行動。

 ゾク、リ

 上げた顔に、無意識に体が震えた。あの顔。あの時、ロクに名乗りもせず、さながら獣のごとくとびかかってきた時と同じ顔。押さえきれない闘争心、強敵と見え戦うことを楽しむ凶暴な獣の顔だ。
 赤い獣が地を蹴り、あっという間に肉迫する。槍を振るう動作は、力任せの型など全く無視したものだ。己の感覚だけに任せた変則的な攻撃は、予測がつかない。背筋をかけ上るのは、恐怖にも似た興奮。無意識に腰の刀を握りしめている。今にも飛び出したい衝動に、鞘を掴んだ手が小刻みに震える。Danceの相手が自分でないのが残念でならない。――俺もそのPartyに混ぜろ!
 そこまで考え、本当に乱入しそうになった寸前、突然すぐ隣で上がった怒号に全ての思考を寸断された。

「幸村ァ!!」

 腹の底から響くような声量。
 それをもろに耳に入れてしまったものだから、物騒な考えなど吹き飛ぶ破壊力だ。じんじんと痺れる耳を押さえて壁に寄りかかり、そのままうずくまる。不意打ちに心の臓もばくばくうるさい。それが聞こえない耳の中で脈打って気持ちが悪い。
 思考をぶっ飛ばされたのは政宗だけではなかったようだ。つんのめるように動きを止めた幸村に、信玄公が重々しく、かつ信じられない素早さで近づいて、

「馬鹿者が!!」
「ごはぁッ」

 すぐ傍で気遣うようにかけてくる若者の声は痺れに紛れて聞こえないのに、信玄公の叱責だけは頭に響いた。そして視界の隅で、二槍の青年が宙を舞うのを見た。
 ……いやいやいやいや。
 飛距離が有り得ないとか骨が折れたんじゃないのかとか、いやそれ以前にくらうなよ。獰猛な獣みたいな瞬発力はどうした。
「大丈夫ですか?」
「……Okey,all right, all right...気にするな」
 まだ少し聞きづらいが、ようやく聴力が戻ってきて頷く。青年は怪訝な顔をした。やはりこの言葉は分からないらしい。幸村は何やら正座して平伏している。さっきまでのあの好戦的な雰囲気はまるでない。今まで手合わせをしていた師範という人にも頭を下げている様子は、本当に先の武士と同一人物かと疑わしくなってくる。
 青年はひとしきりお叱りを受け、信玄の後ろで項垂れながらこちらにやってくる。近づいてくるにつれ、始めの印象とずれてきて、政宗は内心首を傾げた。

 なんだ、ガキじゃねえか。

 青年というが、少年の面影も残る。頬などまだ線が甘い。信玄公と並んでいるせいか、体も細く見えて仕方がない。こいつがあの力強い炎を纏って戦っていた人物とは、どうしても結びつかない。信玄公の後ろに控えながら、居心地悪そうにそわそわと落ち着かない様子は子供っぽくさえ見える。

「アンタが、真田幸村か」
 戦場で一方的にとびかかってきた激しい武士の面影を探しながら、確かにこの男だと、自分に言い聞かせるように、噛み締めるようにその名を口にすると、『幸村』は顔を上げた。
 初めてまともに目が合う。
(……ほう)
 まっすぐに見つめ返してくる瞳には揺らぎがない。

「いかにも。それがしが真田源次郎幸村でござる」

 自慢ではないが、目つきの悪さは自覚している。その政宗の眼差しを、気圧されもせず正面から返してくるのだ。その視線にいささかの屈託もないのが少し気になったが、物怖じない口ぶりが気に入った。
 面白い。

「伊達政宗だ。Nice to meet you」

 自然な動作で右手を差し出すと、若者は怪訝な顔をした。主君を差し置いて握手を求められる意味がわからないのか、もしかすると握手を求めているのも分かっていないのかもしれない。ずいと前に出て強引に手を取れば鳩が豆鉄砲をくらったような顔をした。その表情でますます幼く見えて、それがおかしい。
 政宗のよりも赤い濡れた前髪が、目の前でぱさりと揺れる。この子供のどこかに戦場で見えた鬼が棲んでいるのだと思うだに、興味を引かれて仕方がなかった。




 品書 



お館様のたぬきぶりがいまいち掴めない