主を肩に抱えあげ、敵陣のど真ん中を疾走する。
 主が強引に突き進んできた道は完全に敵兵に塞がれ、忍がいかに有能であろうと無傷での突破は不可能だ。まさしく窮鼠の体である。それでも佐助は比較的冷静に、あらかじめ把握しておいた藪の中に飛び込んだ。伏兵がないのは調査済み、ただ脛巾衆と鉢合わせにならぬよう気配に気を配りつつ、自軍の本体に向って飛ぶように走る。

「さ、すけ」
 主の掠れた声が耳元に届き、佐助は走る足を止めぬまま耳だけそちらに傾けた。此度も単騎で敵本陣に突入などという馬鹿げたことをしでかしてくれた主殿は、興奮冷めやらぬ様子で早口に囁いた。

「龍が、いた。隻眼の、蒼い龍が」





 戦場は人を狂わせる。
 地を揺るがす喊声、血と硝煙の臭い。死に満ちた世界では、正気の者は生き残れない。そんな環境の中、冷静に動ける特殊な技能を身につけた忍の者は、只人からは気狂いといわれる。

 佐助はそれを否定はしない。眉ひとつ動かさず人を斬る忍という生き物は、確かに人としては異端だ。
 だがそれは人が人を慈しむ平生時においての話であって、戦場という特殊な環境ではむしろ、忍は何よりも理性的に動く。冷静さを欠けば、よほどの強運の持ち主でなければ、幾度かの従軍で命を落とす。戦場での正確な働きが求められる忍は、いかに切迫した状況であろうと我を失うということをしない。

 そういう面では、戦場においては武士の方がよほど気触れに近い、と、今現在の主を見ていると思う。
 真田の旦那は勇往邁進というより猪突盲進、運任せにも程がある。佐助がついていなければ、あっという間に命を落としているだろ。しかも、誰に何度叱られても、その場では神妙な顔で頷くのだが、全く改善される兆しがない。
 というのは、戦場での出来事をほとんど覚えていないのだ。

 今回も作戦を無視して敵陣を中央突破し、あまつさえ敵大将に喧嘩を売ってきたものだから、ひどいお叱りを受けた。一応取った兜首の数を伝え、敵の混乱を誘った功績を口添えはしたが、敬愛する武田の大将に厳しい態度で謹慎を命じられて、旦那もさすがにずいぶんと落ち込んでいた。
 しかし、今回の暴走は作戦の失敗にも繋がりかねない行動だ。本来ならばもっと重い罰を受けてもおかしくないのだが、それを謹慎程度で許してしまうのだから、大将も大概旦那に甘い。

 その大将も越後の軍神との戦いではなかなかに無茶をかましてくれるから、無謀ぶりは師弟どっちもどっちといえるかもしれないが。
 それでも、不測の事態に対する冷静な対応力は大将が遥かに優れている。親子ほども齢の離れた二人を比べるのも詮無いことは分かっているが、忍ながら主の阿呆ぶりにいささか情けない思いをしている身としては、比べずにはいられない。そして、ほんの少しでいいから、見習ってくれないものかとため息をついたりするのだ。



 奥州とぶつかる予定は、なかった。今の東北では国元のいさかいが絶えず、甲府信濃くんだりまで出てくる余力はないと大将は踏んでいた。
 しかし予想に反して、奥州の若き主は、まあ、言ってしまえば無謀だった。というか、佐助に言わせれば真田の旦那に負けず劣らずの阿呆だ。安定しない領地をほったらかして他国に攻め入るなど正気の沙汰ではない。
 そんな脆弱な基盤の元の軍など、本来片手で払いのけられるはずだった。

 ところが、同盟していた相模がそれに乗じて兵を差し向けてきたのた。
 元々件の三国同盟、盤石とは言い難く、いずれ誰かが裏切ることは明白だったが、時期が悪かった。全軍のうち三分の二を北条迎撃に向かわせたが、伊達の相手に時間をかけるわけにはいかなくなった。

 そこで、信玄は一計を講じた。
 敵を懐まで誘き寄せてからの挟み撃ち。武田得意のキツツキ戦法で武田優位に持ち込んでから、伊達に休戦を申し入れたのだ。

 実際は、逃げられても追撃に回す戦力はなかった。だが引いてくれればひとまずはよし、また押し切ってこちらに攻めかかってきたとしても、背後を取っている以上敵は袋の鼠も同然、よほどのことでなければ敗れることはまずない。ある種の賭けだったのだが、それが最もうまいように実ったというわけだ。
 なんにせよ、裏切りが出た時点で関東での三国同盟は破産だ。これでまた三竦み状態に戻ることになる今、東北に駒があるのは有利に働くことは間違いない。つかの間とはいえ、北条への抑えにも役立つだろう。大将は越後とやり合いたくて仕方がないようだから、ひとまず伊達とは休戦を締結しておき、越後との決戦に備えるつもりなのかもしれない。伊達がどこまで盟約に義理を立てるかも甚だ疑問だが。

(……ま、俺様には関係ねぇけど)

 大将の思惑など、一介の忍には預かり知れぬこと。上杉を討つも上洛を目指すも、佐助がとやかく口出しする筋合いはない。忍はただ与えられた仕事をこなすだけだ。



 そういうわけで、今は謹慎の暇を持て余した主殿、こと真田幸村の話相手になっている。
 といっても、幼子に伽草子を聞かせてやっているようなものなので、実際のところ子守に近い。

 初めのうちしばらくは、幸村も大人しく部屋で書など広げているようだった。が、やけに静かだと思っていたら、打ち身と擦り傷をこさえて、なぜか外からしょんぼりと帰ってきた。案の定というべきか、じっとしているのに耐えられなくなって道場に行ってきたらしい。
 当然見つかれば大目玉だ。考えずとも分かることだろうに、その通り叱られて落ち込んでいるのだから、佐助は大いに呆れた。おっつけ武田の忍が大将の言付けを持ってきて、幸村を見張っておれ、というから、仕方なく主の暇を紛らわす努力をしている。ちなみに、これはほとんど無償奉仕である。

「なら旦那、甘味の話をしましょうか」
 努めて軽い調子で話を切り出すと、幸村はあからさまに嫌な顔をした。甘味の話題で気を逸らそうなどと、ばかにしておるのか、子供扱いするな! と主が噛みつく口を開く前に、先手を打って宥める。
「まあお聞きなさいよ。浅黄色のあんころもちを知ってるかい。普通、餡子は小豆で作るだろう? 青い枝豆をつぶして作る餡子は、めじろみたいに鮮やかな色をしてるんだよ」
 幸村は険しい顔のまま、しかし言葉は呑み込んだ。興味などないとでもいうように顔を背けているが、全身の神経がこちらに向いているのが分かる。どうやらうまく気を惹くのに成功したようだ。
 しかし、大将が甘やかすのもいけないが、やはり、うちの旦那が一番の阿呆かもしれない。

「枝豆の風味が生きたあっさりした甘みで、小豆餡とは一味違うおいしさなのよ。ずんだもちっていって、千代の名物になってる」
「せんだい……」
 口の中で繰り返して、幸村はちょっと首を傾げた。千代とはどこだ、などと返された日には感動で涙が出るところだが、その心配はいらないようだった。幸村は記憶を探るように僅かに視線を上に投げながら言う。
「千代とは、今甲斐に逗留なされている伊達政宗殿の領地だな。伊達殿はご存知だろうか」
 子どもが知識をひけらかすようなどことなく自慢げな言い方だ。しかし、無邪気に口に乗せられたその名を聞いた途端、胸の何かがざわついた。


 普段、戦場のことをほとんど覚えていない――というより、認識すらしていないであろう幸村が、此度に限ってはっきりと覚えていたことがある。

 隻眼の蒼い龍。
 その男を、佐助も目にしている。なにしろ、刃を合わせる二人の間に割って入ったのは佐助だ。

 龍――と、言えぬこともない、と思う。しかし、その姿はそれよりも佐助には飢えた狼を彷彿とさせた。一目見て、虫が好かないと感じた。理由も何もない直感だが、関わり合いにならない方がよいと、何よりも鋭い忍の本能が強い警告を発していた。
 それにしても、命のやりとりをした相手というのに、伊達殿、と口にする幸村の口ぶりには、不自然なほど含みがないし、あの戦場で聞いた、狂おしいほどの憧憬もない。

「……こりゃ驚いた。旦那、先の相手知ってたんだ?」
「当然だろうが。戦の相手を知らぬ武士がどこにいる」
 幸村はすまして答えたが、幸村の中であの蒼竜と伊達政宗が結びつくことはなかったようだ。これは、間違いなく戦場で一度見えたことにも気付いていない。しかし、だとしたらどこでそんなことを覚えてきたのだろう、と思うに、先ほど戻ってきたときの様子を思い出した。
 もしかすると、戦場以外で顔を合わせているのではないか。道場にいて大将に見つかったのなら、大将は独眼竜を連れて案内していた可能性もある。

「伊達殿は、不思議な言葉を使われる。おっしゃることの半分も理解できなんだ。しかし、あの若さで一国の主を務めておられるとは、器の大きなお方であるな。無論、お館様には遠く及ばぬが」

 そう続ける幸村に、奥州の主への好意と興味の片鱗を感じ取り、佐助はふうんと鼻で頷いた。胸をざわつかせていた何かが喉元までせりあがってきたが、形が掴めぬまま飲みこんだ。
 佐助は近付くべきではないと思った相手だが、幸村が気に入るのを止めることはできないし、その必要もない。勝手に気をもむのは、体力の無駄というものだ。命じられたなら、いくらでも働いてやろうじゃないか。

 まったく、やんなるねぇ……。

 気付かれないよう、吐息に混ぜてため息を吐く。
 幸村の謹慎が明けたら、佐助には関東の偵察というきっつい任務がまっている。




 品書 ≫



ばかだばかだと思いつつ一応主だし守ってやるかっていう微妙な距離感。