全くもって、これほど可愛らしい生き物はない。

 と、やりかけの原稿を放り出して、あぐらの中に座らせたややこと戯れながら、しみじみ思う。
 一週間の仕事終わり、金曜の昼さがり。梅雨明けはまだだが、穏やかに晴れた空から柔らかな日差しがのぞいている。

 まったく、このように可愛らしいものを疎み避けていた、ついこの間の自分の愚を思い出すだに嘆かわしい。ふかふかと柔らかな体。ふっくらと丸い頬、つぶらな瞳。未だできものの一つもないすべすべとした頬を戯れにつつくと、ぁーだかぅーだかよく分からない声をあげて、拙い動作でこちらの手を捕まえようとしてくる。実に愛い。
 佐助は幸村が赤子を可愛がっているのを見ると、何かいやらしい含みのある顔で笑う。どうせ、あやつは内心で馬鹿にしておるのだ。かといって、可愛いものを愛でることを憚る気はないが。だがこれから吹き込むことはさすがに少しばかり気恥ずかしく、幸村はそれとなく戸口の方を窺って、赤子に顔をよせた。

「ちちうえ、だ。言うてみよ」

 出来心だ。人の子がこれほど可愛いのだから、これが我が子ならばいかほどかと、ちょっと思っただけだ。こちらの言うことなどほとんど理解しないであろう幼子が、教えたからとて突然言えるはずはない。案の定、ややこはきょとんとして自分の拳をしゃぶっている。

「ぁーぅゅー」
「ち、ち、う、え」
「ぱきゃーぁぁー」

 一言ずつ区切って繰り返すと、幸村とのにらめっこにも飽いたか、ややは甲高い声をあげて膝の上でそっくり返った。もっちりした滑らかな腹が丸出しだ。その様に頬をほころばせつつ、ひっくり返ったややこを抱きあげて、再び顔を突き合わせる。

「ちちうえ、す、き。言うてみよ」

 赤子が幸村を見上げた。黒目がちのつぶらな瞳が、何かしらの意志をもっているかのように真っ直ぐに視線を投げてくる。
 こちらの真意を先に問うているのだ――と、思うと、心の臓を掴まれる気がした。その無垢な問いかけに、真摯に答えねばならぬ。

「おれは、梵のことがすきだぞ」

 真っ直ぐにその目を見返して真剣に答えれば、無垢な黒い目がぱちりと瞬く。
 甘い乳の匂いのする潤った唇が薄く開き、意味のある音を吐き出す――かと思えば。


「しゅぶぶっぷー」
「むがっ」

 ぺちり、もみじのような湿った掌に鼻面を叩かれて、今度は幸村がのけぞった。涎に濡れた赤い唇を突き出して唾を飛ばす遊びに興じ始めたややこを慌てて遠ざけると、初めて正面の戸口に橙の影が立っているのが視界に入る。佐助だ。いつの間にか戻っていたらしい。

「なーに、ややこに吹きこんでんの」
「……いつからおった、佐助」
「さぁてね? 旦那が梵ちゃんを膝にのっけて、楽しそうにほっぺたつついたりしてたころからかな」

 初めからではないか……!

 覚えのあるどこか意地の悪い笑みを浮かべている佐助に、転げ回りたくなる羞恥を覚える。しかし赤子を放り出すわけにもいかず、幸村はその場で身悶えた。なぜ気付かなかった。あんな姿を見られるなんて、恥晒しもいいところだ。
 悶々と悶えている幸村に、アンタが赤ちゃん言葉で話しかけてたって今更驚かないって、と微妙に失礼なことをのたまい、佐助は何事もなかったかのように話を変えた。

「伊達ちゃんのことだけど。週末って、正確にいつ迎えに来るのか聞いてる?」
「……いや」

 振られた話題は、敢えて目を向けぬようにしていたものだった。気まずげに視線をそらすと、佐助は呆れたように溜息をついた。
「ちゃんと確認しといてよ。金曜の夜に来るのと日曜に来るのとじゃ、だいぶ違うんだから」
 その小言にも、あからさまに気の乗らない生返事を返す。
 分かっている。1週間の約束で預かったのだ。ややの得体の知れなさに怯えていたころにはひたすら長かった1週間が、こうして愛着が芽生えてしまうとひどく短い。改めて他人の口から聞かされると、幼子と過ごせる時がもう残り少ないのだと思い知らされる。

「旦那ぁ、うちの子にするわけにいかないんだから」
「わかっとるわ」

 言葉少なに返して、幸村はふいと佐助に背を向けた。全くもう極端な御仁だよ、呟いた佐助の表情は、まるできかんきの強い子供を持つ親のようなものであることには、まるで気付かないのだった。




 品書 



ひたすら戯れてるだけ。旦那は割と子煩悩だといい。
嫁の前では見栄を張りたいけどそれも看破されてて、できた嫁に立ててもらってたら尚いい。