幸村にも子守ができると分かると、佐助は遠慮なく赤子を置いて出かけるようになった。元々佐助は平日は外に仕事を持っている。ここ数日は、ややこを幸村だけに任せるのは心許ないといつもの仕事を休んでくれていたのだ。
 無論、佐助は出かける前にしっかりと世話の仕方を幸村に伝授していった。ミルクは哺乳瓶にこのスプーンでなんさじだけ入れてこの線までお湯を入れる、ミルクの後はげっぷさせてあげること、オムツはこうやって丸めて黒いごみ袋の中、などなど。
 他にも色々言いたげな顔をしていたが、幸村がもう初めに言ったことを忘れそうになっているのを見て取り、目を離すな、と残りを全部その一言に詰め込んだ。言われるまでもなく、幸村とてそれは承知していた。

 書斎の戸は開け放してある。有事にすぐに対応できるようにするためだ。幸村は書斎でテープを回しながら、居間の方を覗き見た。
(また、やけに大人しい……)
 幼子が大人しいと、逆に不安だ。なぜなら、そういう時は必ずろくでもないことをしでかしているのである。
 前は箱ティッシュをひたすら引き出して、紙に埋もれて空箱をかじっていた。その前は本棚から引っ張り出した辞典を踏み台にして、上の段の文庫を崩しそうになっていた。それは佐助が素早く抱きあげてことなきを得たが、万一のことを考えると肝が冷えた。
 赤子の気配はない。ややこはまだ引き戸を開けられないから、戸を閉めてある台所に入り込むことはないと思うが、大人が思いもよらない場所で想像もつかぬとんでもないことをしていそうで空恐ろしい。一区切りついたら様子を見に行こう。そう思って集中しようとした、そのとき。

 ブツンッ
「ぬぉぉぉお!?」

 突然イヤホンがすっぽ抜けたのに何事かと目を落とすと、ここにいるはずのない赤子と目が合って、幸村は辛うじて飛び退くことは堪えたものの憚らず絶叫した。もし勢いのままに飛び退いた拍子に、驚いた幼子が転んで机の角に頭をぶつけでもしたらそれこそ大事だ。こちらの寿命も縮んだが。

 イヤホンをすっこ抜いた犯人はこの幼子だ。まん丸い目をしてきょとんと見上げてくるその小さな手に、コードがしっかりと握られている。
 まだ早鐘を打つ心の臓を押さえながら、思わず感心した。幸村に悟られずにあの廊下を渡ってくるとは、なかなか大したものだ。怪我もなく目の届くところに来てくれたのだから、褒めてやってもいいくらいではないか。思いついたまま、幸村の膝につかまって覚束ない足で立ちあがろうとしているややこの小さなかしらをよしよしと撫でる。

「仕事中ゆえ、邪魔してくれるなよ」
 そう言い聞かせて、赤子の汗ばんだ熱い手からやんわりと仕事道具を取りかえす。まあ、ややこはそこらで遊ばせておけばよいか、とそのまま仕事に戻ろうとすると、膝に乗りあげたややが突然伸びあがって手を伸ばした。
 指先が垂れさがったコードをひっかける。

「たっ」
 すぽっ

「こらこら」
 すぐに取り返すも、ややこはあきらめない。再び伸びあがってコードに飛びつく。

「パふ!」
 すぽっ

「こら。やめよ」
「だゃぁ!」
 すぽっ

「……」
 何度取り返しても耳に入れた瞬間に引っこ抜かれ、幸村は脱力した。
 そもそも低い机に向って、床に座り込んでやっているのがいけないのだ。子どもの興味を引いておいて、そのうえ手の届くところにいればそれは寄ってくるのも当然というもの。
 ややこは何か楽しいことがあるのか、意味のない音を発しながら握りしめたイヤホンを振り回している。この分では何度取り返したところで埒があくまい。赤子を膝にのせて、幸村は途方に暮れた。
 出来れば今日のうちに仕上げてしまいたい仕事だ。まだ午後も早い時間。数時間なら中断しても大事ない。
 延々いたちごっこを続けるより、中断して寝かしつけてきた方が早い。
 そうと決めると、幸村は片腕で幼子を抱き抱えた。掌を腹の下に差し込んでしまえば、小さな胴はほとんど片手で隠せるほどだ。

 居間に出ると、出る前に佐助が取り込んでいったのであろう、干したての匂いのする布団が山と積まれていた。幸村はその布団の山に、赤子をそっと据えてやった。シーツに沈んでもがく足が、布団に波を作る。
「ほれ、寝よ。気持ちよかろう?」
 揺れる小さな柔い尻をぽんぽんと叩きつつ、自分もその布団に沈む。太陽の光をたっぷり吸い込んだふかふかの布団は、まるでこの世の極楽だ。とろりとまぶたが溶けだして、幸村は慌てて意識を引き締めた。気を抜くと睡魔に付け入られてしまう。

 しかしややこは元気なもので、寝かしつけようというのに動き回ることせわしない。仰向けに転がしてみても、すぐに体をねじって起き上がる。亀やカブトムシのように容易く転がされてはくれないようだ。
 絡みつく布を押しのけ、崩れた布団から硬い床の上に降りてしまえば、途端に速度をあげて好きな所に行こうとするから、その度に引きよせて布団に放り投げるのだが、何度やっても幼子の勢いは衰えることを知らない。

「寝よと言うに、なぜ大人しく寝てくれぬ……」
 もう、柔らかな体を抱きよせて布団に戻すのも面倒になってきた。どうせ戻したところですぐにまた抜け出して、ハイハイでどこまでも行ってしまうのだ。煩うのも詮無い。力尽きてくたりと布団に突っ伏せば、すぐに瞼が落ちてくる。すぐに開けるつもりで、幸村は一度瞼をおろして深い溜息をついた。子どもというのはどうしてこう、無駄に体力があるものなのか。付き合いきれぬ。

「ぅーぅー、むー」

 幼子の唸る声がどこかで聞こえる。同時に何やら小さくて柔らかい物が肩やら首筋やらに触っているのを感じたが、温かくしっとりとした感触がむしろ心地良く、振り払うこともしないまま、感覚が急速に遠のいていった。





 カタタタ、規則的な音と、鼻腔を満たす食欲をそそる香りに目が覚めた。
 目を開けても辺りは薄暗く、自分の置かれた状況が咄嗟に分からない。なにやら腰のあたりに生温かいものがまつわりついているような感触がある。幸村は深く考えずに手を伸ばして、ぐにゃりと柔らかいその物体にぎょっとした。

「ぅおっ、ぉ、おお!?」
「あ、旦那起きた?」

 思わずあげた悲鳴に思いがけず返事が返ってきて、ずっと聞こえていた音は佐助が夕餉の支度をしていたのだと分かる。そうとわかれば、ややこを寝かしつけようとして不覚にも自分が睡魔に負けたこと、仕事がまだろくに進んでいないことも一気に思い出した。この腰に巻きつく感触は、ややがそこで寝ているのだろう。
 そろそろと赤子を抱いて起き上がろうとした拍子に触れた着物の感触に、背筋が粟立つ違和感を覚えた。

「まったく、干した洗濯物布団代わりにするのやめてよね」
 ぷりぷりと怒っている様子の佐助の手前非常に言い出しにくいのだが、とてつもなく嫌な予感がする。
 幸村の上に突っ伏して寝ていたややは、抱きあげてもすやすやと安らかな寝息を立てている。奇妙な格好のまま停止してしまった幸村に、佐助は怪訝な顔をして近づいてきた。自分で確かめるのはどうにも怖ろしく、助けを求めて佐助を見上げる。

「……その、尻のあたりに何やらぬめった感触がするのだが」

 幸村の示すそれを見て、佐助は堪えきれなかったように噴き出した。
 赤子の垂らしたよだれが、着物の尻にそれは盛大な染みを作っていた。




 品書 



イヤホンで遊ぶややこと、親子でお昼寝(違) が書きたかった。いろはの全てはこの場面のためにあります。