幼子は、危惧したように走りだすことなく、壁を伝ってよちよち歩くに留まっていた。
2、3日過ごして「手の打ちようがない」と断定してしまった幸村は、気兼ねなく書斎にこもり、仕事に打ち込むようになっている。佐助はそんな子供を2人抱えながら食事を作り家事を片付け、休む暇もないようだった。
幸村が何かしらの改善努力をすれば済む話ではあろうが、いかんせん、当人にその意思がない。駄々をこねる子供さながら書斎から出てこぬから、仕方なしにやっているというのも大きいだろうと思われた。
幸村は締め切った書室で鬼のように仕事に没頭していた。一度テープの集中してしまえば周りの音は聞こえなくなる。その方が楽だったから、集中を切らさぬようにぶっ通しでやり続けていたのだが、さすがに何時間もはもたない。
イヤホンの隙間からかすかに聞こえてくる音に、幸村はふと手を止めた。
はじめ、どこかで猫でも鳴いているのかと思った。だがどうも様子が違う。一度外の音に気がいってしまうと、せっかく保ち続けてきた集中の糸もあっという間に切れてしまう。
声の主に思い至って、幸村はどきりとした。この声は、赤ん坊の泣き声のようではないか。
「佐助!」
とりあえず佐助を呼びつけて、しっかりと耳に栓をする。幸村が動かずとも、佐助がなんとかするはずだ。
一度切れた集中をつなぎ直そうと、イヤホンから流れる音に必死で耳を傾ける。カタカタとテープが回る音がひどく耳に障る。にゃあぎゃあ、扉の向こうから響く声。泣き声は全く止む気配がない。
「佐助! ややが泣いておるぞ!」
もう一度居間にいるはずの佐助に叫ぶが、うんでも寸でもない。聞こえぬのか、何をしているのだ。
書室にはかすかな声しか届かないが、閉め切った部屋にまで響かせるとは、相当大声で泣き喚いているはずだ。そう思うと、ざわざわと腹の底が落ち着かなくなる。とても集中などできやしない。幸村は仕方なくテープを止めて、重い腰を上げた。
居間には誰もいない。少しこもった泣き声ばかりが、動く者のない部屋に響き渡っている。隣の和室の戸を引くと、途端に耳をつんざく大声が襲いかかってきた。
赤子は、ひと組だけ敷かれた大人用の敷布の真ん中にちょこんと転がって、四肢をこわばらせて泣き叫んでいた。
幸村は襖に手をかけたまま、数拍の間踏み込むのをためらった。この小さな体のどこからこんな声を出しているのだろう。意を決して畳の部屋に足を踏み入れると、途端に泣き声がいっそう高くなる。耳がおかしくなりそうだ。
とにかく、今はなんとか泣きやませなければ。耳が痛いのを我慢して敷布の上にしゃがみこむ。怖がらせてはならぬ。引き攣る頬に、無理やり笑みを浮かべる努力をする。
「ほれ、どうした?」
せめてと柔らかい髪をかき分けるようにそっと頭を撫でると、赤子は嫌がるように両足を蹴りあげて暴れた。突然の動きにぎょっとして手を引っ込める。赤子の動作の一つにさえびくびくしている己が情けない。
こんな時、佐助はどうしていただろうか。
書斎に閉じこもってばかりいた幸村は、佐助がどうやって赤子の世話をしていたかなどほとんど全くと言っていいほど知らない。これまでまともに手伝わなかったつけが今になって回ってきたらしい。
ちらりと記憶にあるのは、抱きあげてぽんぽんと背を叩いている姿くらいだ。佐助はそれだけでぐずるややこを宥めていた。
あれができないだろうか。佐助はああも容易く抱き上げていたのだ。それくらい、幸村にとて……
「泣くな、泣くなよ……」
囁くように声をかけながら、赤子の体に手を差し入れる。大丈夫だ。肌は思いのほかぴんと張りがあって、しっかりしている。そのまま抱きあげるつもりで、腹の下差し入れた手に力を込めた。
(う、わあぁ……)
その手がぐにゃりと柔らかい腹に沈んで、肩が強張った。そう簡単に壊れやしないよ、と言われたことをいくら繰り返しても、手が震える。結局持ち上げるに至らず怖気づいて、安全な布団の上に下ろしてしまった。
やはり、無理だ。こんなに柔らかいもの、持ち上げたら豆腐か何かのように崩してしまう。
布団に下ろされ、赤子は目を真っ赤にはらして涙を零しながら耳をつんざく大声で泣き続ける。ほとほと困り果てて、幸村は無為に部屋の中をおろおろと歩き回った。佐助、佐助はまだ帰ってこぬのか。
「泣きやんでくれ、頼む……」
滑らかな頬を流れる涙を掬いながら懇願してみても、赤子に通じるはずもない。長いこと耳を裂く泣き声にさらされて、いい加減幸村もパニック寸前である。
(ええい、ままよ!)
半ばやけくそに今度こそ抱き上げた瞬間、ぴたりと泣き声が止んだ。
意外なことに、少々乱暴に抱きあげても柔い幼子が壊れることはなかった。
おやと思うて見れば、小さな手が伸びてきて、幸村の着物の胸のあたりをぎゅうと掴む。その力の強いこと。
一度引きはがすとむずがって泣き声をあげるが、肩に寄りかからせるように抱きなおしてやれば着物の衿を掴んでおとなしくなる。それは、大の大人を発狂寸前まで追い詰めた者と同一人物とはとても思えぬ姿だ。
幸村は肩に抱いた赤子をまじまじと眺めた。
(……愛い)
こうして見れば、赤子の面倒を見るのも悪くないかもしれない。初めて抱いた気持ちだった。しかし、やはりひとりで面倒を見切る自信はない。
見よう見まねでとん、とんと赤子の背中を叩いてやりながら、幸村は何度も進まぬ時計をかえりみた。
佐助がようやく帰ったのは、それから半刻も経とうかという時間だった。
そのころ幸村は、ややこを泣きやませたまでは良かったが、寝たと思って布団に下ろせば火がついたように泣きだすし、かというて片付けなければならない仕事もあるからずっとこうしているわけにもゆかぬしで、ややこを肩に抱いたままどうにも動けなくなってしまっていた。その状態で半刻だ。
だから、佐助がよく行く近所のスーパー袋をがさがさ言わせながら部屋に入ってきた時には半泣き状態で噛みついた。
「ばかもの、ややを放って出かける奴があるか!」
「ごめんごめん、昼寝してる間に帰ってくるつもりだったんだけど」
軽い調子で謝る佐助にはあまり悪びれた様子がない。だが幸村はようやく佐助が戻った安堵と疲労とで余裕がなく、その含みに気付かなかった。切々と苦労を訴えるうちに、本当に涙で息が詰まる。だが、佐助が戻ってきたらもう安心だ。
そう思った矢先、佐助は「でも、」とにんまり笑った。
「これからは子守を任せても大丈夫みたいだね。旦那、ちゃんと抱けてるじゃない」
可愛いっしょ? にこにこと顔を覗きこんでくるのに否定もできず、幸村は肩にややこを抱いたまま、かちんと固まってしまった。
≪ 品書 ≫
旦那は佐助限定で亭主関白だといい。