どうするも何も、預かったからには面倒を見るよりほかはない。だが、幸村は頑として赤子に手を触れようとしなかった。
 ふにゃふにゃと柔い体を壊してしまいそうで怖ろしい、というのが言い分だ。しかし、赤子はそんな幸村のわがままなどお構いなしに、腹がへったりおしめが湿ったりすれば泣くものだから、赤子の世話は必然的に佐助がすることになっていった。

「自分で始末できないことは、引き受けないでほしいんだけどねぇ」
 なんだかんだとぶつぶつ言いながら、赤子をあやす姿はなかなか様になっている。耳に痛い小言つきではあるが、赤子の面倒を見てくれるのはありがたかったから、幸村は面倒見の良い年上の同居人をなるたけ刺激しないように、こころなし身を縮めて毎食卓についていた。


 ベビーゲイジなどというものはないから、赤子は好きに床を這っている。気を抜くとうっかり蹴飛ばしてしまいそうで恐ろしくて、幸村は食事時以外は仕事部屋にこもるようになった。
 赤子にかかりきりの佐助が茶菓子を持ってこなくなったのは少々残念ではあるが、あの幼児が目に入らぬ分、気は楽である。

 泣き声も聞かぬよう、イヤホンで耳を塞いでテープを回しながらも、集中できずに悶々と考える。
 いつも、先立つのは激しい後悔だ。なぜああも気安く引き受けてしまったのか。
 しかし、電話口の政宗の声を思い出すと、断る言葉が喉元で止まってしまう。あの場でも断れなかったし、今も耳にすれば突き離すことはできないだろう。いくら後悔をしていてもだ。手助けをしてやりたいと思わせる抗いがたい何かが、今の彼女にはある。

 そして、次に思うのがこれからしばらくの間、どうしたらよいのかということだ。目下のところ、幸村が困っているのはこちらの方だ。
 佐助に多大な負担をかけているのは、重々承知している。掃除洗濯家事、全てを佐助に任せて依存してきたのだ。そのうえ育児まで入ってくれば、それは忙しいはずである。
 しかし、託児所に預けるほどの金銭的余裕はない。
 さらに、自分で面倒を見る気も、ない。全くない。触れるのも恐ろしいのに世話をするなど不可能だ。
 だから、結局は佐助に頼らざるをえないというのがいつもたどりつく結論で、幸村が仕事部屋に逃げ込んでいる現状と全く変わらず、何の解決にもならずに思考が行き詰ってしまうのだった。


 幸村はほとんど無意味に耳を素通りしていくテープを止め、深々とため息をついた。駄目だ。全く集中できない。イヤホンを放り出して畳の上にごろりと横になる。この狭い書室に閉じこもっているから、気が滅入るのだ。そうだ、少し外の空気を吸いに行こうと着流しの裾を整えて腰を上げる。
 そして、書斎の扉を開けた瞬間目に入ったものに、幸村はかちんと固まってしまった。

 居間の入り口の廊下に、それはいた。
 屋内の小生物には割合寛容、というか無頓着な幸村である。糸を吐くあれであろうと黒光りする奴であろうと、食卓にでも上がりこまない限りは基本的に放置だ。そんな旦那が、廊下で某Gに遭遇した娘の如く立ちすくみ顔を強張らせて。

「さっ、すぅぎぇぇぇええ!!」

 確実に家の外まで響き渡ったであろう大音声で、世話人の名を呼ばわった。
 幸村の絶叫に驚いた幼子が、廊下でとてんと尻もちをついた。





「もう、あんな大声で呼ぶから何事かと思ったら」

 佐助は呆れ顔で溜息をつき、腕の中のややの背をなでている。先ほどの幸村の大絶叫のせいで火がついたように泣きだし、なかなか泣きやまなかった赤子は、ようやく落ち着きを見せ始めている。幸村はというと、恐ろしいものでも見るような目つきで佐助の腕に抱かれた幼子に目をやっている。

「立ち上がるなど、聞いておらぬ」
「そうだねぇ。伊達ちゃんも知らなかったんじゃないかな」
 ってことは、旦那が見たのが初めての立っちだったのかもよ、やったね、などと呑気に笑うのを、幸村は恨めしげに睨んだ。それどころではない。こちらは確実に寿命が縮んだ思いをしたのだ。

「明日には走りだすのではないか?」
「それはないでしょ」
「得体が知れぬ」
「……アンタなぁ」

 幸村の言いように、苦笑で返していた佐助も終いには呆れ顔になった。その間もぽん、ぽん、と片腕に抱いた赤子の小さな背を一定の間隔で叩く手は止まらない。佐助の腕の中で、赤子は心地よさげにうとうとし始めている。
「旦那ぁ、何をそんなに警戒するかな」
 抱いてもそう簡単に壊れやしないよ、と、おもむろにすっかりおとなしくなった小さな命を差し出され、幸村は反射的に両手をあげて飛び退いた。途端、赤子がぐずりだし、佐助はすぐさまそれを己の胸に抱きなおす。するとたちまち大人しくすやすやと寝息をたてはじめるから、全く分からない。
 きっと幸村が恐る恐る抱いても大泣きされるのがおちだ。いや、そもそも眠る赤子の力の抜けた体を抱きあげる勇気が、幸村にはない。

「おれは、お前のように器用ではないから」
 そんなの関係ないっての、とため息をつかれても、赤子に手を伸ばす気は全く起きないのだった。




 品書 



旦那のお仕事はテープ起こし。
真田の旦那には到底できそうにない根気のいる細かい仕事をさせたがるのは趣味です。細かい作業に集中してる姿はかっこういいと思うんだまじで(妄想爆裂)