むせるような花の臭いに佐助が目を覚ますと、このころさすがに元気がなかった餌の、久方ぶりに嬉しげな声が耳に突き刺さった。
「さすけ、さすけ、見てくだされ。花が咲きましたぞ」
 弾む声に促されるまま、蟻の子とは反対に不機嫌な顔で見上げると、毒々しい紅色の花が連なって花びらを開いていた。



 花は嫌いだ。腹の足しにもなりやしないし、その臭気の不快さといったらない。
 ここいらに群生しているその花は佐助の巣の真上でも花をつけており、ひっきりなしに糸の上に落ちてきては、罠に穴を開けているのだった。佐助は、放っておけばそこらじゅう花びらだらけになって身を置く場所がなくなってしまうから、巣にかかる紅色の花びらをせっせと地面に切り落として回っていた。
 それをじっと凝視していた蟻んこが、情けない声で佐助を呼んだ。
「それを、こちらにくだされ。ひもじうて、敵いませぬ」
 佐助が切り落そうとしていた花を示す。佐助はちょうど手にした花弁に目を落とした。甘い香りを放つそれは、他の蜜を食べる虫を呼び寄せる。この香りに呼び寄せられて獲物が増えればありがたいが、蝶や蜂まで寄ってくるのは閉口ものだった。奴らが一匹でも罠にかかると、それだけで巣の大部分がめちゃめちゃになってしまうからだ。
 そよ風に、またいくつかの花びらが降り注いだ。佐助はうんざりとそれを横目で見ながら、切り取った花弁を地面に投げ捨てた。

「アンタ、じきに死ぬんだぜ」
「知っておりまする」
 すぐに淡々とした返事が返ってくる。知っているなら、食事をとる必要がないのも分かるだろう。佐助は餌の方に見向きもせず、巣に絡む花弁を処分しに移動する。
 さすけ、と、囁きのような声に呼ばれて、動きを止めた。
「飢えで死にとうはありませぬ」
 縋る目で命乞いをされるのには慣れている。しかし、怖じたことのない今度の獲物の珍しく弱気なその声に、ざわざわと胸がさざめく。
 不愉快だ。

「俺に殺されるなら、かまわないってわけ」
 するりと目の前に移動して確認するように言えば、こちらを見上げた赤茶の瞳が揺れる。
 言いたい言葉を飲み込みながら、察してもらいたがっているような色。親しくなったつもりでいるのだろうか。名前を教えてやったくらいで。何もなくてもやかましいほどに名を連呼してくるのはどういうつもりなのか知らぬが、その程度でほだされてやったと思われるなど、笑わせる。

「かまわないんだ?」
「そういうことでは、ッん、く……!」
 言いかけた言葉を最後まで聞かずに傷を塞ぐ糸を喰い破れば、すぐにとろりと紅い蜜が滲み出す。餌が苦しげに低く呻いても、佐助ははばかりなく首筋に唇を当てて吸い上げた。それほど腹を空かせているではない。ただ黙らせるためだけに。
 がちがちに強張った体が、耐えるように震える。甘い甘い甘露のようなつゆを啜りながら、佐助はわざと傷を抉るように牙を立てた。
「……っ、ぅ……」
 びくり、牙の下で体が跳ねる。小さく上がった苦鳴に残忍な快感が沸き起こる。舌先で執拗に傷口をなぶり、わざと苦痛を与えるように食事を続ければ、耐えかねた獲物が僅かに身をよじる。
「ぅあっ、ぁ……!」
 逃げようとする体を押さえこんで深々と牙を突きたてると、今度こそ悲鳴が上がる。噴き出す血の味が一層濃くなる。空腹でなくても極上の味は変わらず、佐助は半ば夢中になってそれを味わった。

 食事を終えていつものようにこぼれた血の筋を舐めとっている間、蟻はそれ以上抗うことも罵ることもせず、ただぐったりと目を閉じて、肩で荒い息をつくだけだった。言葉をしぼる余裕もないのが見て取れて、佐助はどこかほっとした。
 さっきまでの不快な花の香は、甘い血の香りにいくらか薄れたようだ。
 ざわざわ、風がささめく。
 風に吹かれた花びらがまた、濃いにおいをまき散らしながら巣に落ちた。





 何度花蜜を飲ませてくれと懇願されても、佐助はその頼みをことごとく一蹴した。
 蟻の目の前で甘い香りを放つ花びらを次々に地面に切り落とし、その顔が辛そうに歪められるのを見る度に、昏い喜びが胸に広がる。しかし歪んだ愉悦は長続きせず、胸の内に立ちこめるもやもやとした暗雲ははますます深くなっていくのだった。


 その日は、雨が降った。
 佐助は雨粒の当たらない葉の陰に身を隠して、雨の中の蟻の子を見るともなく眺めていた。

 雨なんか嫌いだ。巣に溜まった水滴のせいで、罠の効果が半減してしまう。雨上がりには巣の水を払うのに忙しくて、呑気に空など見上げている暇はない。
 しかしいつぞの蟻の子は、佐助には理解できぬことを嘯いた。雨上がりの蜘蛛どのの住まいは、水玉が日に輝いてまこと美しゅうござる。雫にも小さな世界が映って、きれいだ、と。
 その蟻は、何日も飲まず食わずでずいぶんやつれた。雨の中で仰向いて大きく口をあけ、雨粒が落ちてくるのを待っている様は傍から見ていると実に滑稽だ。顔面を雨粒に打たれて盛大に咽こんだのが見え、佐助は忍び笑いをもらした。無駄な努力。報われない。

 死にたくないなら、初めのように力を振り絞って暴れてみればいいのだ。そうすれば、佐助も躊躇いなくその血の最後の一滴まで飲み尽くして、終わりにしてやるのに。
 不平の一つも言わず命乞いすらせずに、次第に弱っていきながら変わらずに懐こく声をかけてくる。その声に名を呼ばれるたびに、胸の奥にぎゅうと爪を立てられているような心地がするのだ。
 それは嬉しさや心地よさとはかけ離れていて、不快でしかないはずなのに、その感覚があるから佐助はとどめを刺すことができずにいる。


 雨脚が遠のいたようだ。雲の切れ間から陽が差し込み、辺りがにわかに明るくなる。巣に溜まった雫が日を反射して目を刺し、佐助は眉をしかめた。
 きれいだなんて、全くもって理解しがたい感想だ。目が焼かれて、痛い。

「さすけ」

 全身ぐっしょり濡れた蟻がまた、空を仰ぎながら掠れた声で佐助を呼んだ。
 きれいでござる、と言う視線の先を見やれば、雨上がりの空にうっすらと7色の橋がかかっていた。



 そのまま気を失うように眠りに落ちた蟻の子は、しばらく目を覚まさなかった。
 雨は、蟻の僅かな体力をひどく奪ったらしかった。一度は雨で流れたにおいは、盛りを迎えた花のせいで一層強くなっていたが、それに反応して蟻が目を覚ますことはなかった。

 普段ならば、獲物が弱ってきたらさっさと血を飲みほし、腹を満たして次の狩りに向かう。それで終わりだ。大した思い入れもないもの達には、それで十分だった。
 だが今度の獲物に限って、眠ったままの相手に牙を立てることがどうしてもできない。この場で殺してしまわなければ、余計な愛着がついてしまいそうなのは分かっている。しかし、もう一度その声を聞かずに食い殺してしまうのは、後味が悪い気がした。

「おい、」
 声をかけてもうんでも寸でもない。考えてみると、こちらから声をかけるのは初めてかもしれない。
 気まぐれに取ってきた花びらを鼻先にちらつかせてみても、蟻んこは反応しない。前は呼びもしないのに喧しく喋くり続けていたくせに。理不尽な苛立ちだと分かってはいるが、気分が悪い。
「おい、お前」
 苛立ちに任せて、花びらを顔に叩きつけた。柔らかいそれで叩かれても、煩わしいだけで痛くはないはずだ。だが蟻は無反応。眉根を寄せるでもなく、ぐたりと目を閉じて微動だにしない。細い呼吸だけが唯一、命が尽きていないことを知らせている。
 ざわざわ。 ああ、まただ。

 その声に名を呼ばれるたびに、長いことしまいこんでいたはずの心が揺らぐのだ。
 あの時名前を教えなければ、こんなに胸が騒ぐこともなかった。
 そして、呼ばれなくなることを恐れることもなかった。


 名前、なんて。
 教えなければよかった。


「……ゆき、むら」

 初めて口にした他人の名は、舌にひどい違和感を与えた。
 呼ばれた幸村はぴくりとまぶたを震わせて、じれったいほどゆっくりと目を開いた。少しの間ぼんやりとさまよった視線が佐助に定まると、憔悴が色濃い頬に、それでも輝かんばかりの満面の笑みが広がった。佐助はいやに嬉しそうな顔から目をそらして、取ってきた花びらを鼻先に突き出す。

 幸村は、佐助の手から花を食べた。何日ぶりかの食事になりふり構わずかぶりついて、みずみずしい花弁のひとひらから繊細に伸びたおしべまでまとめて咀嚼してしまったものだから、その食べっぷりに呆れたほどだ。
 なんだ、自分で食べる元気があるなら、まだまだ心配する必要はなかったんじゃないか。目覚めない蟻を眺めては、やきもきしていた自分が腹立たしい。

「かたじけない」

 食べ終わって笑った顔にはやはり以前のはつらつとしたものはない。
 しかしこいつの世界は、きっといつでもきらきら輝いている。佐助とは違う世界を見ているに違いないのだ。そうでなければこんなふうに笑えるはずがないし、素直に礼を言えるわけもない。

 弱りながらそう言って笑うから、胸の奥のようなよく分からない所が、ざわざわ騒いでしかたがない。




 品書 



初めて呼んだ他人の名前。

鬼畜 というより あまのじゃく な佐助。性根は優しいから自分の行動に自分で傷ついて、苛立って八つ当たりしてまた傷つくの悪循環。