指先に僅かな震動が伝わる。細い糸を伝ってくる侵入者の気配に、佐助は身をひるがえした。
ここに巣を張って早三日、ただの一匹も獲物がかからなかったので、そろそろこの巣は捨てようかと思っていたところだ。運がいい。粘着性のない自分だけの道を滑るように走る。かかった獲物はずいぶん活きがいい。近付くと足元が波打って、巣の主でありながら振り落とされそうだ。
「ぬぉぉああ!? なにごとでござるぁぁあ!!」
巣にかかっていたのは、一匹の若い蟻だった。佐助の知る蟻にしてはやけに赤い印象だ。しかし、そんなことは大した問題ではなかった。力いっぱい暴れているが、佐助の糸は暴れるほど体に絡みついて自由を奪う。今は暴れているが、じきに体力が尽きれば大人しくなるだろう。それまで高みの見物と決め込もうと、少し離れたところに腰を据えた。すると突然明らかな呼びかけが耳に届いた。
「そこの御仁! 手を貸してくだされ!」
誰に向かって言っているのかと思えばばちりと視線がかち合って、佐助は思わず呆気にとられて今回の獲物を見詰め返した。手を貸すも何も、この巣の主は自分で、罠を仕掛けたのも食い物を得るためなのだから、そんな頼みを承知できるはずもない。
聞き入れられることを信じて疑わない眼差しに、佐助は苦労してこみ上げる笑いを押し殺した。この状況で自分が何者だか察っせないとは、どれだけ世間知らずなのだ。代わりににっこりと、一見親しげに笑いかけてやる。蟻の子は安心したように頬を緩めた。
「それは、できない相談だね」
「な、なにゆえでござるか!」
一度は緩んだ頬が、再び面白いように強張る。佐助は張りつけた笑みを動かさず、さらりと獲物を絶望に叩き落とす言葉を吐いた。
「だってこれ、俺の罠だから」
すぐには意味が分からないようだった。ぽかんとしたように佐助を見返し、その顔がみるみる青ざめていく。今まで見てきた多くの餌と同じように、命乞いでもしてくれるかと思ったら、直球で問いを投げ付けてきた。
「それがしを、食べるのでござるか」
「うん。すっごい久しぶりの獲物」
アンタ、うまそうだよね。にいと目を細めてみせると、蟻は青ざめた頬をひきつらせた。と思うと、突然また力の限り暴れ出した。弾む糸に跳ね飛ばされかけ、若干焦る。
「後生でござるぁぁあ!! それがしっ、お館様の元に……!!」
「無駄だっての。俺様の糸をなめてもらっちゃあ困るぜ」
「ぬぅがぁぁああっ!! ぅぉおやかたさばぁぁぁああ!!」
「往生際が悪いねぇ」
するりと糸を伝って接近する。活きがよいのは結構なことだ。少々やかましいが、久しぶりに食事にありつけると舌なめずりをする。血の気も多そうで、うまそう。
背後に回り込んでまだ暴れようとするのを容易く押さえつけ、頭を掴んで首筋を露わにさせる。芳醇な血の香りにくらりとする。舌を這わせれば、薄い皮膚の下で熱い血が脈打っているのが分かった。
いただきます。
なんの前置きもなく、血管の透けるうなじに牙を立てた。餌はその瞬間、ひゅっと息をのんだきり、全身を強張らせて抵抗も忘れたようだ。だが佐助が獲物の様子を把握していたのはそれまでで、甘い血が舌に触れた瞬間、周りの全ては目に入らなくなっていた。こんなに美味いものは今まで口にしたことがない。空腹がそう感じさせているのか。
夢中になって血を貪り、飢えと渇きが癒され腹が満たされてようやく、佐助は獲物を離した。傷口を糸で丁寧にふさぎ、こぼれた血の筋を余さず舐めとる。獲物はずいぶん前からぐったりとして、触れてもほとんど反応しなくなっていた。時折弛緩した四肢がびくりと震えるだけで、耳が痛いほど喚き散らしていたのが嘘のように呼吸も弱々しい。
「ごちそうさま」
覗きこんで声をかけても得物は反応しなかった。うつろな瞳が頼りなく揺れて、佐助をまともにうつすことなく閉ざされた。
この規格の獲物なら普段は3日4日持つのだが、飢えに任せて飲みすぎてしまった。今回は長く持たないかもしれない。まあ、明日もう一度食事をとるくらいまで生きていてくれればいい。腹いっぱい食っておけば、一週間は餌をとれなくても耐えられる。
せいぜい、頑張って生きながらえてくれよ。意識のない獲物の耳に、期待もせず吹きこんだ。
佐助には家族がない。
母親は生まれた時に兄弟たちと喰ろうた。同じ場所で生まれ、周りじゅう埋め尽くしていた同輩たちも喰ろうた。
周りで動くもの触れる物全てに見境なく牙を立て、生まれたての仲間の柔い脚を食いちぎり噛み砕き、また逃げおおせるまでに何度も噛みつかれた。佐助は運よく足の一本も失うことなく満足な体で生き延びた。
一人で狩りをして生きていけるようになってから、友と呼ぶものはいない。巣にかかれば華麗な蝶であろうと、同種だろうと変わりなく喰った。
ある者は呪いの言葉を吐き、ある者は狂って会話も成り立たなくなったから、獲物の言葉に耳を傾けるのはずいぶん前にやめた。誹謗も甘言も、同じように聞き流した。そうすることに慣れていた。
けれど、この蟻の第一声には、不覚にも驚き揺らいでしまった。
目を覚ました獲物は怯えて騒ぎたてることもなく、思った以上に大人しくじっと佐助に目を注いでいた。晴天の日差しの中、他人に見つめられることに慣れていない佐助は居心地が悪い。何だ、と不機嫌に問うと、蟻は大きな目をぱちりと瞬いて、言った。
「きれいな色でござるな」
すぐには何の事を言われているのか分らなかった。視線の方向から自身の纏う色のことだと分かっても、にわかには信じられなかった。毒々しいこの色を、企みもなくきれいだという輩など見たことがない。誰もがこの姿に顔を顰めて目をそらす。それが当り前で、今さらそんなことに傷つくことなどありはしないが。
ほめそやして逃がしてもらおうという魂胆だろうか。一度食われたのに? 一瞬にして頭の中を様々な憶測が駆け巡り、すぐに返事が返せなかった。あるまじき失態だ。こんな戯言、まともに取り合う必要はない。
「そりゃあ、どうも」
にこりと昨日と同じ笑みを乗せて返すと、蟻はむしろ返事があったことに安心したように、また話しかけてくる。
「そなたは、蜘蛛なのでござるか?」
「そうだよ」
「そなたのような色の御仁は、初めてでござる」
「そう」
「まっこと、鮮やかでござるなぁ。まるで熟れた柿のようだ」
あれは甘くて美味しゅうござる、と懐こく続ける。素直に感心したような口ぶりに、また胸のあたりがざわりとする。真っ直ぐに向けられる目を見返せず、佐助は薄い笑みを貼り付けたまま顔をそらした。
昨日は死にかけていたというのに、すっかり元気になっている。これだけ回復力があれば、しばらくこいつで食いつなげそうだ。餌の戯言は、いつものように聞き流していればいい。あの言葉が嘘でも真でも、どうでもいいことだ。
どうせまた短い付き合いなのだから、気にすることはない。しかし一度捉えられた心は、容易には鎮まってくれなかった。
今回の餌は、本当によく喋る。佐助が巣の真ん中で寝転がっていると、網にとらわれた格好のまま、何かと話しかけてきた。それは自身の体験だったり、彼がいた集団のことだったりした。
蟻は幸村と名乗ったが、佐助がその名を口にしたことはない。どこの世界に餌に名を付けて話しかける奴がいるというのだ。佐助は名乗らなかった。食料と慣れ合うなどばからしいにもほどがある。しかし名前を教えなければ教えないで、くもどの、くもどのと勝手に呼びかけてくるから、いずれにしてもやかましさからは逃れられないのだった。
いかにも楽しげに喋るのだ。殺される相手に向かって、笑顔さえ向けるのだ。
佐助にはそれが理解できない。佐助の食事のときだけは別人のように大人しくなったが、それで怖じるということがない。食事が済めばまた何事もなかったように話しかけてきた。状況を理解できないほど馬鹿なのか、それとも何をされても覚えていられない阿呆なのか、どちらかに違いない。
放っておけば一日中喋りつづけているから、知りたくもないのに餌についていろいろ詳しくなってしまった。
そこそこ強い毒をもっているということ。家は途方もない大家族で、大将をお館様と呼んで慕っているらしいこと。毎日どんなものを食べてどんなことをして、どんな仲間がいるかも知った。どの話も必ず、「お館様」がどれほどすばらしいかと言う話に収束していくから、彼がいかにお館様を崇拝しているかは嫌でも分った。
今日も、彼の種の他の種族との付き合い方を延々語り続けている。佐助がいつも一人でいるのを不思議に思った結果らしい。
「蜜を分けてもらう御礼に、緑どのの危機には我らが立ち向かうのでござる。我が灼熱の槍をもってすれば、ななほしどのにも後れは取らぬ!」
「ああ、そう」
「本当でござる! この身が自由なれば、お館様のため、いかな強敵であろうと一歩も引かぬ所存!」
「……んなこと言って、無茶やらかして叱られてたんじゃねえの」
この短期間見ていた彼の様子から、どうしてもそうとしか思えない図が想像できてしまい、流すつもりが突っ込んでしまう。それに蟻はうっと言葉を詰まらせた。そう言われれば、少しは落ち着けと才蔵にもよく叱られ申した、とその時のことでも思い出したのか、しょんぼりする様がおかしい。
出てくる名前は決まっていた。小介、六郎、甚八に由利。一番よくでてくるのはお館様だが、その次によく聞く名前は才蔵だった。
話を聞いていると皆が皆世話焼きのように聞こえるが、実際は違うのだろう。武勇を誇るくらいだから強いことは強いのだろうが、こんなところの罠にかかるような間の抜けた面があるから、一緒にいれば心配で目が離せないのは少し分かる気がする。
それだけ皆が気にかけるのは、好かれていたということなのだろう。
名を呼ばれれば、親しみもわくのだろうか。他人に気にかけられるのがどういうことか、ずっと一人だった佐助には分からない。思うと、頭が考える前に言葉が口から滑り出ていた。
「さすけ」
「え?」
蟻はきょとんとして聞きかえしてきた。しかし、佐助が一番驚いた。たった今まで名乗る気など欠片もなかった。なのに自分は何を口走った。こいつに名を呼ばれてみたいと、僅かでも一瞬でも思ってしまったのだろうか。
言ってしまった言葉は戻らない。何の事だか分らぬ様子の蟻を睨むように見ながら短く返す。
「名前」
期待などしていないはずなのに、不安が胸に広がっていく。呼んでもらえなかったらどうしよう。
ほんの数呼吸の間、しかし佐助にとってはおそろしく長い沈黙の後、ようやく意味を理解したらしい蟻は、心底嬉しそうに笑った。
「さすけ、どの」
初めて他人に呼ばれる自分の名前は、全く自分の名前だという気がしなかった。
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初めて呼ばれた自分の名前。
また死ネタです。薄暗いです。そして言うほど佐幸でもない。
そんなですが、よろしければお付き合いくださいませ。