いくら花を食べさせても、佐助が食い荒らした蟻の体は確実に回復を遅らせていた。幸村は眠っている時間が次第に長くなっていった。
 目を開けていても、ぼんやりと宙を眺めているばかりで以前のようにやかましいお喋りはほとんどしない。佐助ははらはらと落ちてくる花びらを巣に絡ませるまま、巣の真ん中に寝転がって獲物を待ちながら、大人しすぎる幸村を何度も盗み見た。
 静かで何より、清々するはずなのに、今度はぐったりとしているのが気になって仕方がない。

「おい、……ゆき、むら」
 まだ舌に慣れない名で呼びかけると、晴れ渡った空に顔を向けたまま小さく反応が返ってくる。

「あれを見ており申した」
 漠然と宙を示されても、佐助には何の事だか分らない。空を見上げても何もない。
 無心に宙を見つめていた幸村が、くも、と呟くように言った。それでやっと雲を眺めていたのだとわかったのだった。

「さすけは、人の食べ物を食べたことがござるか?」
「……? いや」

 唐突な問いに眉を寄せながら、佐助は首を振った。
 人間は蝿を増やすから嫌いだ。奴らはどこにでも湧くが、人のいるところには特に多くいる。分厚い鎧を着こんでいるせいで食べるのも一苦労だし、大しておいしくないうえに、巣にかかれば羽ばたきで糸をねじ切るという荒技まで仕掛けてくるから、できれば関わりたくない相手だ。

「それがしは、わたがしを食べたことがござる」
 あの綿のようなのでござる、と、幸村はその時のことを思い出すようにうっとりと目を細めて漂う雲を見上げた。佐助もつられて見上げてみたが、手の届かないものを目にしても何の感慨もわかなかった。
「たいそう美味でござった。口の中でとけて、甘い雫になるのでござる。あまりに美味しゅうて、持ち帰るのを忘れてしもうて」
 心配した仲間が迎えにきて、その後お叱りを受けた、と嬉しげに語る。今そんなものが食べたいと言われてもあるわけないからね、と先手を打つと、幸村は承知していると笑った。くもどのに、そこまで無茶は言わない。
 代わりのように楽しげに思い出話を続ける。
「あれは、祭りというのだったのでござろうか。人の作る灯りが星よりも輝いて、それは美しゅうござった」
 それは佐助も見たことがある。人の近くに巣を張ったこともあった。しかし、あんなもの、目が眩むばかりでいいことなど一つもない。灯りに惹かれて飛び込んでくる羽虫もないではなかったが、食いでがないうえ掛かりすぎてすぐに巣が駄目になった苦い記憶しかない。だから、そのとき二度と灯りの傍には巣はかけまいと決めた。

「なるほど、罠を張る場所も、難しいのでござるな」
 はじめて聞くだろう佐助の話に、幸村は目を丸くした。ここはどうでござったか、と問うてくるのに、佐助は肩をすくめる。
「アンタがかからなけりゃ、大はずれだよ。こんなに花びらばかり落ちてくるんじゃ、目立ちすぎて罠にならない」
「よいではござらぬか。飾りつけているようで、見ていて楽しい」
 あまりに幸村らしい素直な感想に、不覚にも吹きだした。確かに、こいつのようにこんな目立つ罠でも引っかかってくれる間抜けな奴がいるから、問題ないのかもしれない。
 そうして話しながら、ふと会話の主導を自分が握っていることに気付く。以前は、幸村はそれこそ相槌を挟む間もないほど絶え間なくよく喋った。それが今は途切れがちだからだ。息を継ぐ間、次の言葉を考える間。その間を、佐助が埋めている。それを心地よいとさえ感じている。

 無意味だ。わかっている。けれど、もう。


「アンタは、いつもそれだな。何でもかんでも楽しいとかきれいだとか」
「さすけはいつも嫌だとかきらいだとかばかりでござる」

 ふ、ふ、と吐息だけで笑った幸村は、言いたいだけ言ったのか、そのまま口を閉じた。佐助が話をつながなければ、そこには沈黙がおりる。風が草葉を揺らす音だけが聞こえてくる。
 はらりと目の前に落ちてきた花びらを片手で幸村の口元に持っていけば、素直に元に口をつけた。僅かだがそこにも蜜があるらしいことは、幸村を見て知っていた。

「花が終わりまするな」

 脈絡なくぽつりと口に出された言葉に、一瞬どきりとしたのに気付かないふりをした。
 悲観するでもなく、淡々と言う幸村は、きっと己の終わりも知っているのだろう。



 巣に落ちてくる花びらは少しずつ減っている。いよいよ花の終が近付いてくると、佐助は食事を敢えて軽めにとるようになった。
 近頃の餌の血は薄すぎて、飲み尽くしたところで大して満足感も得られまいから喰いたくないだけだ。
 傷に牙を立て、滲み出るほんのわずかな血を舐めるように飲みながら、それがまだ温かくて甘いことに安堵する。そして、そう遠くない未来にこの温もりが失われることも思い知る。

 幸村は運んでやっていた花びらもほとんど口にせず、鮮やかな花弁に埋もれるようにして微動だにしない。前はじゃくじゃくと食べていたはずのおしべも、食べられることなくしおれて朽ちていく。焦燥が身をつますのを感じながら、もう遅い、とどこかが囁くのも聞こえていた。聞こえないふりをした。

「おまえ、死ぬぞ」
 折角こうして運んでやっているのだから、ありがたく食べればいいのだ。何も食べなければ、次第に弱っていずれ死ぬ。それが嫌だと佐助に餌をねだったのは幸村の方だ。

「ゆきむら」

 やっとつかえずに舌に乗るようになってきた名前を呼んでも、ほとんど反応はない。呼吸すら分からぬほどで、否が応にも理解した。もう、手遅れなのだ。


 ずっと一人で生きてきた。巣にかかるのは皆ただの食事、言葉を交わす必要も意味もなかった。

 名を呼ばれることにも、呼ぶことにも慣れてしまった。
 話し相手がいることに、心地よさを感じてしまった。
 出会った瞬間から殺めることが決まっていた相手に、いらぬ愛着を抱いてしまった。

 手遅れだったのだ。はじめから、救いようないほどに。


「……、ゆき、」

 呼ぶ声がかすれる。このまま別れるのは嫌だった。花の終わりが命の終わりのような気がしていた。まだ食べる花はあるのに、目を閉じるな。

 意を決して、いつも幸村が含んでいた花蜜に口をつける。初めて口にする甘味は壮絶な違和感しか伝えない。慣れぬ味は味覚を苛む毒と同じだ。
 佐助は吐きだしたい衝動を押さえこんで、それを含んだ口で幸村の唇を塞いだ。食事以外で初めて触れた他者の肌は、思ったよりもずっと柔らかかった。
 流し込んだ蜜に、喉がこくりと動くのが聞こえる。ようやっと目を開いた幸村が、佐助を認めてゆるりと微笑んだ。

「……、かたじけのうござる、」

 そこに絶望はなかった。恨みごとの一つもない。ずっと変わらぬ透き通った目で佐助に笑いかけて、穏やかに礼を言う。
 幸村の世界は、最期を目前にしてもまだ輝いているのだろうか。初めてまともに口をきいたときに幸村が言ってくれたように、今の彼の目に映る自分の姿が、少なくとも自分が思っているより醜悪でなければいいと思う。

 もう一度、舌が痺れるような甘い蜜を含んで流し込んでやる。幸村は弱々しく喉を鳴らして流し込まれる食事を呑んだ。
 その日、佐助はもう食事をとらなかった。





 翌朝、幸村は最後に見たのと同じ格好で目を閉じて、すっかり固く冷たくなっていた。
 死骸になってしまえば今までの餌と全く同じで、佐助は一人で最後の食事をとった。いつでも甘かったはずの彼の血は、滞ってひどく不味かった。冷たい血とは裏腹に、なぜか霞む目の奥と喉が熱くて、むせかえりそうになる。塩っ辛い。こんな味は、初めてだ。
 最後の一滴まで飲みほしてから、亡骸を巣から切り離した。すっかり痩せてからっぽになった遺骸は、風のない中くるくると落ちていった。そこらじゅうに咲き誇っていた花が終わって、濃い紅色の花びらが敷き詰められた地面はまるで花の棺のようで、佐助は柄にもなくその光景をきれいだと思った。
 ここ数日を過ごした砦は、草花や塵が絡んで穴だらけになってしまった。ここもそろそろ潮時だ。

 糸を出して風に乗る。次に着地した場所に新しい巣を張ろう。今度は、花の咲かないところがいい。雨にも濡れないほうがいい。そして、次の餌は話が通じない奴がいい。こんな面倒は、もうたくさんだ。
 佐助には、未だ幸村の見ていた世界の半分も理解できていない。彼のようにてらいなくきれいだと言えるほど、佐助の世界は輝いていない。
 けれど幸村の周りだけは、記憶の中で鮮やかな色をもっている。
 本当に、きらきら笑うのだ。終わりに近づきながらもいつまでもまっすぐに世界を見つめて、きれいだと言える彼の方がよほど美しいとずっと思っていたことに、今更のように気付いた。

 風に乗りながら見上げた先で、雲の切れ間から金色の光が降り注いでいる。きっと幸村なら、こちらが呆れるくらいはしゃいで、目を輝かせながら言うのだろう。さすけ、見てみよ、あの光の帯、掴めそうだ。きれいでござるな。
 ――ああ、きれいだね。

 どこからか楽しげな笑い声が風に乗って届いた、気がした。




 品書



初めて見えた色のある世界。

これという救いはないけれど、完全に真っ暗でもない。 こんな感じの薄暗い話が急に書きたくなります。しかし読みたくはない。(なんという矛盾)
お読みくださり、ありがとうございました。