6時間目の半ば頃から校庭をぽつりぽつりと濡らし始めた雨は、終学活が終わるころには本降りになった。幸村は窓の外を眺めて憮然と溜息をついた。傘を持っていない。
テスト前で部活は休み。中でのキツイ筋トレもしなくてよいのはいいが、この雨の中帰らなければならないのには閉口だ。折悪く、今日は早く帰るように親から言われていた。雨足が強くないのが救いといえば救いだ。
部活もないし遊びに行こう、というクラスメイトの誘いを断って、一人で玄関に降りる。仕方がないから走って帰ろうと思っていると、下駄箱のところで見知った姿を見つけた。
「あ、佐助」
「おー旦那。今帰り?」
振り返ってにこりと笑った佐助は、見覚えのある赤い折り畳み傘を持っていた。この前幸村が佐助の家に遊びに行った時に、持って行って忘れてきたやつだ。今の今まで忘れていたが、さすがは幼馴染、幸村が傘を忘れることを見越して今日持ってきてくれたらしい。
佐助とは幼稚園の年少さんからの付き合いで、それこそ実の兄弟のように育ってきた。同い年のはずなのだが、そのころは末っ子で甘えん坊だった幸村と、そのころからしっかり者で面倒見のよかった佐助が同じ組になったときから、運命は決まっていた。
幸村がハンカチを忘れたときに貸してやったのが佐助なら、転んで膝をすりむき、ぐずる幸村の手を引いて保健室に連れていったのも佐助だ。そのためか、幸村は担任の先生よりも佐助によく懐いた。小学校、中学校と同じ学校に進み、同じクラスになったり分かれたりしても、基本的にその関係が変わることはなかった。
そして、幼少から刷り込まれた絶対の信頼は高校生になった今でも健在だ。分からない宿題は佐助に聞けば分かる、教科書を忘れたら佐助に借りればよい、弁当を忘れてもとりあえず佐助、というふうに、コースもクラスも違うのに幸村はとにかく佐助を頼る。
今この瞬間も、それだった。
「ありがとう」
「ちょっ、何言ってんの!」
当然のように手を伸ばすと、佐助はどういうわけか傘を抱きかかえるようにして逃げた。訳が分からず、少し機嫌を損ねて逃げた幼馴染を睨む。
「おれのために持ってきてくれたのだろう」
「いや、何その俺様な発想!? 俺そこまで旦那の面倒見ないよ!?」
「だが、それはおれのだ!」
「俺のだって! 勝手に取んないでよ!」
俺だってたまたま持ってたんだから、と佐助はあくまで渡さない姿勢だ。幸村は頬をふくらませた。幸村がいつハンカチを忘れても、いつも佐助はハンカチを二枚持っていたじゃないか。今日だってその口に違いないのに、どうしてそう知らんふりをするのだ。
「前に遊んだとき、忘れていったやつだ」
「えー、そうだっけ……?」
赤い傘を指差して強い口調で言い張ると、佐助は初めて首をかしげた。あーだのうーだの唸りながら記憶を探っている。そうしているうち、ようやく思い出してきたらしい。
「あーそうかも。ごめん、これ旦那のだ。ずっとうちにあったから、うちのもんだと思ってた」
持ち主が幸村だったと思い出せば、佐助は思いのほかあっさりと傘を差し出した。うむ、と満足して受け取りながら、いつ鞄からもう一本の傘が出てくるかと待つ。しかし、佐助はそのまま鞄を閉じてしまった。一緒に帰るものだとばかり思っていたのに、帰らないつもりなのだろうか。
「お前の傘は?」
「ないよ。俺今日それしか持ってきてないもん」
あっけらかんと返されたその言葉は、幸村に結構な衝撃を与えた。では、おれは一つしかない傘を横取りしてしまったのか。いくら元々幸村のものだといっても、佐助が自分のために持ってきたのを取ることに僅かながらも罪悪感を感じる。
「俺は自分で何とかするからさ。旦那、急いでるんだろ?」
佐助は下駄箱の前で、怒る様子もなくひらひらと手を振っている。急いでいることは急いでいる。だが、しかし……。
早く帰らなければと思う気持ちと良心の呵責の板挟みに焦れて、幸村は強引に佐助の手を引いた。
しとしと、静かに降る雨の中、鮮やかな赤い傘が一つ。
その赤い傘の下、ぎゅうぎゅうに肩を寄せ合いながら帰路を行く男が二人。
「せまい」
「だから、旦那が使いなって言ったのに」
小さな折り畳み傘に、いくら細身とはいえ高校生にもなる男が二人はいるには無理があった。傘に収まらない互いの肩は雨にしっとりと濡れてしまっている。だが、幸村は文句をたれつつ傘を持つ佐助の腕にくっついて離れようとはしなかった。
「佐助が持ってきたのに、おれだけ使うわけにはいかないだろう」
一度こうだと言ったら、幸村は頑なだ。佐助は押し問答も無駄なのを知っているから、大概のことは適当なところで譲歩条件を付けて言うことを聞いてくれる。その条件が、今回は佐助が傘を持つことだった。佐助が傘を持った方の肘をちょいとあげて隙間を作ったから、そこに腕を絡めるのはごく自然の流れだ。
雨音を響かせる傘を見上げると、どうも自分の方に中心が傾いている気がして、幸村は反対側の佐助の肩を覗く。やはり、幸村よりも濡れていた。同じ傘に入っているのに、不公平だ。幸村は傾いた傘を佐助のほうに押しやった。
「おれはいいから、佐助がもっと入れ」
「そういうわけにゃいかねえよ。今は俺の方が入れてもらってる立場なんだから。ってこら、離れない! 俺まで濡れるでしょうが!」
「やはり佐助が一人で使え。おれは慣れてるから、いい」
「駄目だっての! 制服濡らすと臭くなるよ。アンタのことだから、どうせ脱ぎ散らかしっぱなしにするんだろ」
佐助はまるで見てきたような口を利く。事実その通りだから、返す言葉もない。相変わらずこちらに傾く傘の下、幸村は渋々腕を絡めなおした。
今までさんざん甘えて頼りにしてきたが、佐助も完璧ではない。そう今日の一件で思い知らされ、遠慮気遣いをせねばと突発的な衝動にかられてはいるものの、普段しないことをしようとしてもなかなかうまくゆかない。
分かれ道でもひと悶着あったが、結局佐助が別に急ぐ用事はないからと家まで送り届けてくれ、今は真田宅の玄関先で、かいがいしくも幸村の制服についた水滴を払っている。
「やっぱ折りたたみで二人は無理があったって。濡れちまってるし」
自分の方が濡れているくせに、ちゃんと自分で干すんだよ、という親のような言い方に、幸村はああ分かってると聞く人によっては聞き流したのが分かる生返事を返した。今はどうやって佐助と対等になるかということで頭がいっぱいだ。佐助の呆れ顔に気付かず、深く考えずに思いつきだけで誘ってみる。
「用がないなら、少し上がっていかないか」
茶の一杯でも出せば少しは気が治まろうと思ったのに、佐助はちょっと考えるそぶりを見せ、首を振った。
「今日は遠慮しとく。俺はないけど、旦那は親御さんに呼ばれてんだろ? 俺様はさっさと退散するよ」
「うぐっ……」
言われて初めて思い出し、幸村は呻いた。そうだった。こちらから誘って置いて都合が悪くなるなど、格好がつかないったらない。
佐助は気にするふうもなく、この傘だけ貸してくれる? と今までさしてきた赤い傘を示した。もっといいやつを貸そうかと申し出るが、兄やのような同い年の幼馴染はやっぱりやんわりと断る。
「いや、これでいいよ。ひどい雨でもないし。今度遊ぶ時にでも返すから」
しかし、と食い下がる幸村に、佐助は今度はやや強い口調で、これでいいの、と繰り返した。
「俺のが貸してもらってるんだから」
それに、久しぶりに手つないで帰ってたころ思い出して結構楽しかったよ、なんて言われれば、ならまあいいかと思ってしまう。そうなると、普段使わない気を使っていたのも何だか馬鹿らしくも思えてきた。
じゃあまた明日、と佐助は片手をあげて雨の中に出ていくのに、こちらも軽く手を振って返す。
煙る雨にぼやける景色が赤い傘を滲ませるのを途中まで見送って、幸村は自宅の引き戸を開けた。
品書 ≫
佐助がただの友達でも面倒を見てくれるのが当たり前だと思ってる旦那。