*旦那と筆頭ができてます。
ほんとに救いがないのでいろいろご注意。
静かに襖が開かれ、誰かが入ってくる衣擦れの音がする。政宗様、と慣れた声が低く呼ぶ。政宗は声の方に僅かに頷いてみせ、口元で笑った。
戦場で幾度となくまみえ、間違えようもなく肌に染みついた気配が、今は激しさをひそめて同じ狭い室内にいるのがひどくおかしかった。その炎をこの目に映すことは、もう叶わない。
「よォ。真田幸村」
いつもの強気で声をかけると、かすかに気配が揺れた。伊達政宗、呼ばわる声にはまるで覇気がない。最高の好敵手のそんな情けない声、聞きたくなんかないってのに。
「お加減は、」
「All right. ぴんぴんしてるぜ」
形式に乗った挨拶に大仰に両手を広げてみせる。それは本当だった。体に不都合はない。歩くのも、刀を握るのも、状況さえ整えば簡単だ。だが幸村は沈んだ声のまま続けた。
「その、目は」
「……二度と開かねえってよ。ハッ、左目まで失うことになるとはな」
されると思っていた問いだったが、思いの外感情が揺れた。言い捨てる声音が卑屈に歪むのが、自分で聞いていても分かった。
母の愛と共に失った右目。右は忠実な従者が埋めてくれた。左目の闇をどう埋めたらいいのか、政宗にはまだ分からない。
「言っとくが、負けたわけじゃねえぞ。両目を失っても、命は失ってねえ。龍の爪は、まだ折れちゃいねえ」
幸村は答えない。だが、憐れむような眼をしているのが肌で分かる。敗者の負け惜しみにしか聞こえないのは、自分で分かっている。視力を失った今の政宗では、刀を抜いても、いくら体が覚えているといっても、目明きの達人には敵うはずもない。
分かっている。
おもむろに幸村が立ち上がり、その妙な気配の揺れに、僅かな違和感を覚えた。しかしそれも一瞬で、すぐに何をする気かと身構える。おそらく目の前まで来て膝をついた幸村の吐息が震えているのが分かる。
「ご無礼を。……御手を、拝借いたしまする」
静かすぎる声、断りを入れて、温かい手が政宗の手を取った。柔らかい触れ方に導かれるまま手を伸ばすと、着物の肩に指先が触れる。その手を腕に滑らせ、肘にたどり着こうという時に、突然、その感触が途切れた。
「っ……!」
思わず、息を飲んだ。そこにあるはずの物をいくら探れど、衣の袖を掴むばかり。予想だにしなかったことに混乱する。どういうことだ。
向かい合って左手で触れるはずの右腕がない。刃を握る右手が。
「……っ、はは……!」
不意に笑いがこみ上げた。何だ、そういうことか。あの場に一緒にいて、この男だけが無事であったはずがない。
「はっ、は、はははっはははは!」
自分だけが、失ったものだと思っていた。それがどうだ。
幸村は、黙って政宗の哄笑を聞いていた。政宗は喉を引き攣らせて笑いながら、嘲りの言葉を吐き出す。半分は、自分に向けたもの。
「お互いザマァねえな、真田幸村! 俺は両翼を失い、お前は牙を失った」
どっちがマシだったのだろう。幸村は何も言わない。まだ憐れむような眼をしているのだろうか。そう思うと急に腸が煮えくり返るような気がした。 俺は、片輪ごときに憐れまれるほど落ちぶれちゃいない!
掴んでいた袖から肩を突くと、面白いように体勢を崩す。そんな体で、よくも龍を見下せたものだ。傍らの刀を手探りで掴む。
「丁度いい、試してみようじゃねえか。目の見えねえ俺と片腕のお前、どっちの爪がまだ鋭いかをよ!」
勢いに任せて刀を抜く。鞘走る感覚は手によく馴染んだもので、今更目で見るまでもない。刃の振るい方も、体が覚えている。
ここから一歩踏み込んで手にした刀を袈裟かけに振り下ろせば、まだ起き上がることもできずにいる片腕の好敵手など、ほんの一呼吸のうちに息の根を止めることができる。無論、左腕一本といえど、紅蓮の鬼が本気で抵抗すれば政宗も無事では済まないだろうが。
「おやめくだされ」
幸村は聞いたこともないような弱々しい声で、ただ懇願するだけだ。そんな声で情けを請われる日が来ようとは、夢にも思っていなかった。
「それがしは、今の政宗殿に刃を向けることができませぬゆえ」
本気で斬るというならば、斬られましょう、と。
きっぱりとしていても、半ば諦めてしまったような淡々とした言葉に、刀を握る手の力が抜けた。柄が掌から滑り落ち、畳を掻いて転がる音がする。
失ったのは、自分だけだと思っていた。
幸村は変わらずに紅蓮をまとい、二槍を手に戦い続ける物だと思っていた。
だからこそ羨み、苛立ちをぶつけることもできたのだ。それなのに、そんな姿をさらすのか。お前がもう刀を握れぬように、しのぎを削り合った好敵手ももういないと思い知らせたいのか。
目を失ったのは、むしろ幸運だったのかもしれない。片腕を失ったうえ無為に生きながらえた、無様な姿を見ずに済む。政宗の瞼の裏には、美しいその姿がまだくっきりと残っているのだ。
紅蓮の鬼と呼ばれた男は、政宗の中ではまだ生きている。
「政宗殿」
幸村が呼んだ。淡々としていて、それでいて泣き出しそうな、はじめて聞く声。
「触れてもよろしゅうございますか」
政宗は声のする方、おそらく視線が注がれているであろう方向に顔をあげて、勝手にしろとばかりに両手をおろした。衣擦れと畳を擦る音が近づいてくる。手を伸ばした気配がしてから、躊躇うような数呼吸の沈黙降りた。
どんな顔をしているのかは想像できないこともないが、本当に思い浮かべる顔で合っているのかは確かめようがない。
「御肩に、触れまする」
幸村は、律義にいちいち断りを入れて触れた。
御髪に、頬に、まぶたに。幸村が口にした場所を熱い手が順に触れては、ひどく優しく撫でた。片手での愛撫は羽根のように柔らかで心許ないが、確かに温度を伝えてくる。ちりちりと肌が焦がされるよう。
その眼は、まだ真っ直ぐに政宗を見つめているのだろう。炎を潜めたまなざしが絡むことはもう二度とないのだと思うと、やはりそれも心残りかもしれない。戦場で見るそれは心の臓を貫くように、政宗を魅せてやまぬのだ。
触れる毎に少しずつ距離を詰め、いつの間にかもう鼻先の触れる距離にまで近付いた幸村が、吐息のかかる距離で囁いた。
「接吻を、いたしまする」
どこに、とは聞かなかった。
牙で穿つように爪で引き裂くように、その全てで慈しみ愛しんでいたのを、政宗は知っている。
品書 ≫
紅蓮の残像を追いかける。
情緒不安定な筆頭。憐れまれるのは死ぬほど嫌だけど、自分は可哀想だと自分で思って卑屈になってる。