戦で負傷したのだと聞かされた。それを聞いてもすぐには状況が把握できなかった。
待ちに待った武田との一戦で、邪魔する小十郎を振り切って飛び出し、真田幸村と何度目かの一騎討ちをはたしていたのは覚えている。だが、それはもっとずっと前の出来事だったような気がするのだ。
どこか分からぬ闇の中で、長いこと戦っていたような気がする。嫌な記憶だ。憎悪や焦燥ばかりを抱えて、がむしゃらに前にばかり進もうとしているのだ。そこにはなぜか慣れた家臣の姿はなく、やけに鮮明な赤があった。
「夢を見たのでしょう」
小十郎は言う。そうだろうか。そうかもしれない。多分、記憶が混乱したのはその感覚が妙に生々しかったせいだ。
夢は時間がたてば薄れて消えてしまうもの。起き上がれるようになった政宗は現実の政に追われ、微妙な違和感を残しながらも内容も定かではない夢のことなど忘れかけていた。
そんな時、突然幸村が訪ねてきたのだ。
どうしても気になることがあるという。少々馬鹿ではあるが、立場はわきまえているはずの男だ。顔見知りとはいえ、仮にも敵対している国に、共も連れずに押しかければ手打ちになっても文句は言えないことが分からぬはずはない。
本来は追い返してやるところを通してしまったのは、政宗も拭えない違和感が気になって仕方がなかったからだった。
内密のことだからと通した人気のない離れで、一国の主を呼びつけた客人は萎縮するでもなく背筋を伸ばして座している。同席を申し出た小十郎は言いくるめて追い返したため、部屋には政宗と幸村の二人だけだ。いつも真田に張り付いている忍びは、屋根裏に潜んでいるかもしれないが。幸村は挨拶もそこそこに本題を切り出した。
妙な記憶があるのだという。
始めから生命など存在していなかったかのような闇の中で、数人の仲間と共に出口を探しているのだ。しかし仲間は次々に闇の中に消えてしまい、幸村も脱出するまえに何者かに殺される。周囲は夢だというし、状況から考えてもそうとしか思えぬのだが、どうにも得心がゆかぬという。
言葉が足りぬ上に順番も前後して分かりにくい幸村の説明を、聞きかえし口をはさみつつ何とか聞き終え、政宗は嘆息した。
夢だとしても、こいつらしくない嫌な夢だ。いやそれよりも、政宗の記憶と似通いすぎている。話を聞くほどに、おぼろげだった記憶の輪郭がはっきりしてくるような心地がする。
それにしても、この馬鹿は。
「そんなことを確かめに、ついこの間まで陣を構えてた相手の所にのこのこやってきたわけか」
「然様でござる」
政宗の遠回しの嫌味にも悪びれる様子なく、幸村はこくりと頷く。本当にただの夢だったら外交問題にもなりかねないというのに。あまりの能天気に政宗は呆れた。突然の訪問を招き入れられた時点で許されたとでも思っているのかもしれない。
「ハッ、How fool you are! アンタ、俺が覚えてなかったらどうする気だったんだ?」
幸村は初めて困ったように視線を彷徨わせた。が、数拍おいてようやく政宗の言葉の意味が分かったらしく、目を見開いた。
「! では……!」
「ああ。感謝するぜ。アンタが訪ねてこなければ、俺もただの夢で片付けるところだった」
なぜ今まで忘れていたのか分からないほど強烈な記憶が鮮明に蘇ってくる。
己の存在すら危うくなるような闇。その中でぽつりと光る灯。一点の曇りもない白、それに広がる赤。幼子にするように頭をなでた、銀髪の男。小十郎の姿がなかったのは、早々にretireしていたからだ。あの時の感覚までもが蘇り、胸にちりりと痛みが走る。政宗は隻眼で虚空を睨み据えた。
「胸糞悪ぃ顔も思い出したぜ。涼しい顔して人の傷を抉るガキがいたろう」
薄暗い部屋のたった一人の子供。感情の見えない冷たい色の目を思い出すだに虫唾が走る。きっと忘れる、と宣言した、言葉通りに忘れかけていたのも気にくわない。
幸村はことの元凶である人物にも政宗ほどの憎悪はないらしく、ただ戸惑ったように首をかしげた。
「あの子供……、何者だったのでございましょう」
「さあな。教える気もなかっただろうよ。俺たちが忘れると確信してたようだしな」
生憎、しっかりと記憶に刻みついているが。
どうして忘れられようか。無二の臣下を失った闇黒の世界を。
「アイツの言葉通り忘れるのは癪だ。俺はぜってえ忘れねえ。あの絶望も焦燥も」
あんたの情けない泣き顔もな、と冗談めかして付け足すと、痛いところを突かれた幸村は悔しそうに呻いた。政宗は真剣な表情を崩さずに続ける。
「そして二度と繰り返さねえ」
今度は、絶対に失わない。
周りも見ずに突き進んで他人に諌められるような無様は、二度と繰り返さない。
幸村も政宗の本気を感じ取ったらしい。キッと表情を引き締めると、とてもあの泣き虫と同一人物とは思えないような凛々しい顔になる。
「それがしも、ああ言うたからにはますます技を磨く所存。そしていずれ、己の力でそなたを超えてみせようぞ!」
「言うねえ。一度手を組んだからって、容赦しねえぞ」
「それは、こちらとて同じこと」
力強く頷く様は、虎の若子の名にふさわしい。真っ直ぐな視線に射抜かれ、ぞくぞくとした歓喜が沸き起こる。だが、決着の時は今ではない。
時が来たら。今から気が昂ってかなわない。たった今新たにした誓いが胸をくすぶらせているようだ。押さえられぬ高揚を持て余しているのは、幸村も同じ。
物騒な顔で笑いあい、二人は親しい友垣のように拳を突き合わせた。
あの場で無理に決着をつけなくてよかったのかもしれない、と幸村を送り出してから思う。どうせ勝負がついてもまた現の世で顔を合わせることになるのだし、仮に一騎討ちであの夢を終わらせていれば、おそらく別世界にいたこと自体が記憶から抜け落ちてしまっていただろう。
「真田は何の用でございましたか」
「Ah? 大したことじゃねえよ。世間話だ」
政宗は、覚えていない者に言っても仕方のないことだ、と、あからさまに適当にあしらったが、小十郎は見え透いた嘘を指摘することなく、そうですかと引き下がった。
出来過ぎたこの男は余計な詮索はしないが、今はその引き際の良さが不安を掻き立てる。政宗の危機に立ち会えば、夢だろうが現だろうが一切の躊躇いもなくその身を楯にするのだろう。
不安を顔に出したつもりはないが、ふと従者が威儀を正し、政宗も何事かと思わず背筋を伸ばす。
「この小十郎、政宗様のお傍を決して離れません」
「……、お前……」
突然の言葉に意表を突かれた。咄嗟に反応できず、苦々しく顔をそむけた。きっと自分は今、さぞ間抜けな顔をしていることだろう。
全く覚えていないものとばかり思っていたが、感覚だけは残っているのかもしれない。それで少しでも身を大事にすることを考えるようになるならば、その点に関してだけはあのガキに感謝できなくもないかもしれない。が。
気に入らないものは気に入らない。
感謝なぞ、死んでもしてやるものか。
「今更、何を言ってんだ。当然だろうが」
ついと顎を上げて従者を見下ろし、傲慢に言い放った。
馬を止めていた場所に戻ると、番をしていた佐助の声が木の上から降ってきた。
「旦那ぁ、気は済んだ?」
いかにもうんざりといった風の物言いだ。幸村が何か言うより先に、たらたらと文句を垂れ流す。任務中に原因も分らず意識を飛ばすという不覚を取ったのを気にしているのか、意識が戻ってからこっち、佐助はあらゆることにおいて何となく投げやりだ。
「全く、たかだか夢の内容を確かめにわざわざ奥州まで出向くかよ、普通。独眼竜の旦那が招き入れたのは予想外だったけど、何か分かったわけ?」
幸村は大きく頷いた。目覚めてからずっと胸に滞っていた釈然としない感覚が、すっきり晴れたのだ。やはりあれはただの夢ではなかった。政宗も証明してくれた。
「出向いた甲斐はあった」
馬に跨りながら返事を返すと、そりゃよかったね、と棒読みの答えが戻ってきた。
意識を失う直前の記憶がないのは佐助だけではない。幸村も、政宗との一騎打ちの最中、どちらが有利だったのかすら覚えていない。だから佐助に落ち度はないのだが、何も覚えていない者に言ったところで慰めにもならないだろう。
しかし、なぜ幸村や政宗は覚えているのに、佐助は覚えていないのか。政宗も小十郎は覚えていないらしいと言っていた。
闇の中で手を引いてくれる佐助を、普段以上に頼もしく思っていたのに。あんなに必死に手を伸ばしたのに。撃たれて目覚めた自分を、泣き出しそうな顔で抱きしめてくれたのも覚えているのに。
「本当に覚えておらぬのか」
「何をよ? 旦那の夢に俺が出てきたからって、俺が覚えてるわけがないでしょうが……ッた! えぇ!? 何で俺様殴られんの!?」
きれいさっぱり忘れているらしい己が忍になんとなく腹が立って、後頭を拳で殴りつけた。本気で取り乱した自分がまるで阿呆のようではないか。
当然の抗議をひと睨みで一蹴する。佐助は幸村の不機嫌を嗅ぎ取ったようで、諦めたように態度を機嫌をとるものに変えた。
確かに、みっともない真似をした自覚はある。
思い出しても顔から火が出る。政宗や慶次もいたというのに。幼子のように泣き喚いてしまったのは、あれは場所が悪かったのだ。あんな闇に取り巻かれていたら、否が応にも不安になる。そもそも、
――佐助が許しもなく勝手にいなくなるのが悪いのだ。
そのうえ自分の仕出かしたことを覚えていないという。しかと言いつけておかなければ、いつまた繰り返すかわからない。
佐助、声音を改めて呼べば、佐助もいい加減な態度を引っ込めた。その目を見据えて命じる。
「勝手に死ぬことは許さぬ。お前を殺していいのは、おれだけだ」
「何、急に物騒な」
俺様超優秀な旦那の忍よ? と、佐助はいつものように笑い飛ばした。が、珍しくそれから何か悩むような微妙な仕草をみせた。
「……それ、前もどっかで聞いたような」
どこだっけ? 首を傾げる佐助に、幸村は笑みをこぼした。
「夢の中であろう」
潮風の薫る地に、男たちの賑やかな笑い声が響く。男ばかりの宴の席は華やかさには欠けるが、きどる必要もなく気安い雰囲気が流れていた。
「しかし、珍しいな。お前が四国くんだりまで足を延ばしてくるたぁ、また何かやらかしたのか?」
元親の揶揄に、慶次は、とんでもない、と盃を持たない手を大仰に振った。
「ちょっと米俵の中身を入れ替えただけだよ。小豆と大豆とえんどう豆。そしたらまつ姉ちゃんの逆鱗に触れちゃって」
「はっはッ、あの奥方も、怒るとおっかねえんだな!」
愉快気に笑い飛ばす元親に、情けない顔をする慶次。まあ飲め、と徳利を傾けられるのを慶次はありがたく受けた。
「そういや、あの傷は大丈夫か?」
酒を注ぎながら、元親が思い出したように口を開いた。
「あの傷って、どの傷?」
「ほら、前、腕に怪我してたろ」
そんな覚えないけどなぁ、と慶次は首を傾げる。元親もどこからそんなことを思いついたのか分からず、首をひねった。
慶次とはそう頻繁に顔を合わすこともない。前、というのは具体的にいつだっただろうか。
ま、何ともねえならいいか、と元親はその話題を打ち切った。
「ところで、これからどうすんだ? しばらくここでのんびりしていっても、こっちは構わねえぜ」
先の嵐で船が壊れてしまい、しばらく海へも出られない。お前さんがいれば退屈せずにすむ、という元親の誘いに慶次も乗り気な様子を見せたが、申し訳なさそうに辞退した。
「しばらく帰れそうもないし、これから奥州まで行ってみようと思ってるんだ。途中、甲斐にも寄って」
思い立ったら吉日、ってね、と笑う。
「俺もなんでか知らねぇが、青と赤が頭っから離れなくてよ。会ったらよろしく言っといてくれ」
羨ましげに言う元親に、慶次はひらりと手を振って応じた。
送ってやれなくて申し訳ないとしきりに謝る気のいい男にそう気にするなと手を振り、慶次は一人の旅路に出る。
日和もよいし、話相手でもあれば言うことはないのだが、いつもの相棒は今回は留守番。土産でも買ってやらねばたいそう拗ねてしまうだろう。
これから会いにゆく彼らの姿や声がやけに鮮明に思い出され、ずいぶんと久しぶりなはずなのだが全くそんな気がしない。ふと、見たこともないはずの仄暗い情景が脳裏をよぎった気がしたが、それはすぐに消え失せた。
さて、幸村には好い人の一人でもできているだろうか。まああの信じられぬほどに奥手で晩生な若子に、そう簡単に春が来るとも思わぬが。
「おっし、行きますか!」
一人で豪快に掛け声をかけ、足取りも軽く一歩を踏み出す。通り抜けた風が慶次の羽飾りを揺らした。
≪ 品書
まさかの慶次で締め。こんなことになるとは思っていませんでした。
どんな話だったかと言われると特に山も落ちも意味もない。orz 萌を詰め込んでたはず なんです けど ね……!
長いことお付き合いいただき、ありがとうございました。