その日、武田は朝から慌ただしい。
 恒例の豆まきは、日が真上を過ぎたころから始まる。使用される道場は前日のうちから埃を掃かれ、床を磨きあげられ、念入りに準備される。軍内総出で投げ合う大量の豆を、後でちゃんと頂くためだ。
 道場に集まった者達の前で、まずはきちんと災厄を祓う儀式を行う。堅苦しいのはそこまでで、後はその場にいる者たちでひたすら豆をぶつけあう。そのまま宴会になだれこむのが常だった。
 甲斐の虎と虎若子の参戦する豆まきは熾烈なもので、宴が始まるころには死屍が累々と積み重なっている。それでも、毎年怪我人は何人も出るが、目をつぶしたという話も、まして死人が出たという話も聞いたことがなく、大きな死傷事故が起きたことはなかった。


 どうにか昼時に帰還した佐助は、そのまま屋根裏で仮眠をとり、頭をすっきりさせてから主の元に向かった。日はもう西に傾き始めている。そろそろ始まっているころだろう。
 炎の如く熱い師弟が豆をぶつけ合うだけでは飽き足らず殴り合いに発展するのも、宴の席で飲めぬ酒を飲んで前後不覚に陥るのも、いつものこと。結局幸村の後の面倒を見るのは佐助だ。
 毎年毎年似たような経緯を経て同じような結末に辿り着くから、今さら何があってもそう簡単には驚かない自信があった。

 屋根から天井裏にもぐりこみ、騒がしい方へと向かう。入った途端に何やら熱気のようなものが吹きつけた気がしたのは、気のせいではあるまい。道場の外からでも聞こえていた雄叫びは、近くで聞くと耳を破壊しかねないほどだ。

「ぅおおおッ燃えよォォオ!!」
「ぅわあぁぁ! 幸村様、豆を燃やさないでください!!」

 ……。
 天井から顔をのぞかせたとたん、炎を上げる豆を投げ付けられた哀れな一般兵が悲鳴をあげて逃げ惑っているのが目に入り。佐助は一瞬頬を引き攣らせたが、努めて自分を落ち着かせた。
 うん、いつものこといつものこと。前にも熱くなりすぎて、道場を燃やしかけたことがあった。幸い小さな豆は床板を燃やすには至らず、消し炭になり果てて黒い煙をあげている。

 忍んでいたのに幸村は敏くも佐助に気付いたらしく、天井を振り仰いだ。丹色の袴に襷がけ、鉢巻をしめた姿はいつもの戦場のものとは違えど、佐助を見る両目はまるで戦場にいるかのようにいきいきと輝いている。幸村は興奮も冷めやらぬ様子で例の大音声を佐助に向けた。
「佐助ぇえ! お前も降りてきて豆をぶつけよ!」
「あーお誘いありがたいけど辞退するわ」
 こんなのに付き合っていたら体が持たない。棒読みで返した佐助に、幸村は童のように口を尖らせた。手にしているのが炒り豆であっても勇ましく見えていた主が、急にただの間抜けに見える。けれど何か言いたげな顔をしたのは一瞬で、最愛の師に呼ばれると即佐助をそっちのけでそちらに反応した。

「幸村!!」
「はいっ、お館様!!」

 信玄は乱闘の中心で、全身にびしびし当たる豆鉄砲をものともせず仁王立ちしている。しばし無言で幸村を見つめ、なんの前振りもなく威風堂々と言いきった。

「かかってまいれ!!」
「ぅおお館様ぁああ!!」

 そのときの幸村はものすごくいい笑顔をしていただろうが、残念ながらそれは見えなかった。お許しを得て狂喜乱舞する旦那と、珍しく挑発するような態度をとった大将の間で、二間ほどの距離をおいて激しい応酬が始まる。
 まさに豆の嵐。誰一人として間に入ることはおろか、近づくことすらできない。周囲に屍が増えていくのが恐ろしい。

 ……これも、いつものこと、いつものこと。
 現実逃避気味に自分に言い聞かせる。豆を使い果たした幸村が笊を投げ捨てた。信玄も拳をためて迎え撃つ。
「ぅおやかたさっ……!?」
 いつもの調子で飛びかかろうとした幸村の頭が、何の前触れもなくズっと沈んだ。信玄の拳が頭の上を空振り、おやという顔をして信玄が拳をかわした幸村を見る。
 ゴツンッ……ずいぶん大きな音が、豆に足を滑らせてひっくり返った幸村の後頭部から聞こえ。いつもどんな拳をもらっても元気に跳ね起きる旦那にしては起きるのが遅い、と思い近づいてみて。
 体面を取り繕うのも忘れ、絶叫した。

「ちょっ……、旦那ァァア!!?」

 しっ、白目むいてる……!!

 大慌てで息を確かめる。打ち所が悪ければぽっくり逝きかねない勢いだったと思う。こんな間抜けな死に方された日には泣くに泣けない、っていうかむしろ情けなくて泣けてくる。幸村はぴくりとも動かないが、どうにか息があるのを確認してほっと息をついた。

「まだまだ、修行が足らん!」
「ははー、そっすね……」

 腕を組んで快活に言いきってくれた大将に、乾いた笑いを返す。まさか今更これほど肝を冷やすことが起きるとは思っていなかっただけに、佐助はがくりと脱力した。もう、勘弁してくれ。

 のびてしまった旦那を屍の山に加え、今年の節分の乱闘は幕を閉じたのだった。





 怪我人の手当てもあらかた終わり、道場じゅうに散らばる豆が拾い集められて(幸村が消し炭にしてしまったものは仕方ない)、軍内はようやく落ち着いた。いつもやかましい幸村がずっと気を失っていたから、というのもある。その旦那は、今はもう呑気な顔をしてぽりぽりと炒り豆を食っている。
 一応、歳の数は始めに数えているのだが、その後におまけという名目である限り食べ続けるから、明らかにおまけの方が口に入る量が多い。幸村は始めは無心に食べてばかりいたが、やがて腹の虫も治まったらしく、ぐるりと辺りを見回して佐助を呼んだ。
「佐助、食うたか」
「まあ、少しは」
 本当は口にしていなかったが、佐助は適当に誤魔化した。本当のことを言えば無理に勧められるに決まっている。

「昨夜から、どこへ行っていた」

 無造作に問われ、うっと返答に詰まる。今朝方のあまりに阿呆な状況を思い出して苦々しい気持ちになると、それが顔に出てしまったのか、幸村が探るように佐助の顔を覗き込んできた。
 ただでさえ黙って出たことでご立腹だというのに、行き先が伊達と知れたらどうなることか。いたたまれない気まずさを感じながら目をそらす。
 幸村はしばし、佐助をじっと見つめていたが、仕方ないと言わんばかりに笑った。

「まあ、よい。何事もなかったようではあるし」
「ごめん、旦那、忙しいと思ったから」
「お前がおらぬせいで余計に手間取ったわ」

 襷もすぐにほどけるし、と忌々しげに袂をひっぱる。それくらい自分でまともにやってよ……! 内心呆れながらも、口では殊勝に謝ってみせた。
 幸村が空気を和らげたのでもう放免かな、と思うと腕を捕まれて強引に座らされ、両手を出さされる。

「福を蓄え、これからも俺に仕えろ」

 ほれ食え、と無遠慮に両手にざらざらと福豆を山のように盛られて、佐助は青くなった。




 品書


慣れているつもりでも毎年驚かされ寿命を縮める佐助。
佐幸だと言い張りたい…です……

豆まきゃあいいってもんじゃありませんね。節分の夜やるものだと知ったのは後のこと。一日お祭りなんてやらないよね普通……!
教養がないと恥をかく。