雪の夜道、人気のない大通りをからかさが過ぎる。軒から洩れる灯りは心もとないが、薄らと積もる雪の白さで辺りはほのかに明るい。降りしきる牡丹雪が傘に分厚く積り、ずしりと重くもたれている。

 ――まったく、うちの若旦那ときたら。

 店じまいをした軒先に、顔見知りの男が赤ら顔で姿を見せたとき、佐助には後の展開がおおむね予想できた。その瞬間、意図せず嫌な顔をしてしまったらしい。男は気の毒そうに、しかし半分面白がるように笑い、いつもの店で飲んでいるから、迎えに来い、という意味の言葉を伝えて、帰っていった。
 そんな傲慢な伝言をするのはただ一人しかいない。佐助は仕事の手を止めて、奥に一言言い置いてから傘を取った。深刻な悩みなど絶対にないであろう能天気な若旦那の顔を思い浮かべて、佐助は顔を顰めた。

 ふらりと飲みに出かけて遅くなり、迎えをねだるのはこれが初めてではない。
 おそろしく酒に強い若旦那は、そうそう前後不覚になったりしない癖に、酔ったふりをして遊ぶのが好きだった。こうして人をよこす時は大抵まだ余力を残していて、そして誰かが迎えに行かない限り決して帰ってこない。
 子どものわがままと同じで、叶えてやらなくても大して問題はないのだが、問題は、子どもよりも迷惑な立派な大人がそれをしているということだ。

 ――どっちが年上だか分かりやしない。

 何が悲しくて半周も年上の兄のような人を迎えに行かなければならないのか、甚だ疑問ではあるが、いつの間にか佐助の役割になってしまっているのだから仕方がない。何度か応じてしまっている手前、今回だけ無視するわけにもいかず、冷たい雪の中、足早に迎えに向かっているのだった。





「ごめんください」

 馴染みの暖簾をくぐって声をかけると、店の中の注目がさっと佐助に集まった。といっても、十人も集まれば満席になるような小ぢんまりとした店だから、ほとんどは見知った顔だ。冷えた体が室内のぬくい空気にじわりとほぐされ、傘に積もった雪が水滴になって土間を濡らした。
 仲間に囲まれて機嫌よく片手をあげた若旦那は、まだ片手に猪口を持っている。頬には赤みが差し、佐助に向ける視線もどことなく熱っぽくて焦点が合わない。珍しくふらつくくらい酔っているようだが、口を開けば呂律はしっかりしていた。
「佐助、おそいぞ」
「すみませんねぇ。この雪の中、急いで来たんですがねぇ。ほら、帰りましょうよ、お迎えに上がりましたから」
 寒い中せっかく来たというのに、開口一番そんなことを言われれば思わず嫌味ったらしい口調にもなる。

 遅い、と文句を垂れた割に、佐助に言われてもまだ未練がましく空の徳利を傾けてみたりする様子は、まるっきり帰りたくないと駄々をこねる子どもだ。お前も一杯付き合え、と巻き込まれそうになったところを周囲の客に助けられ、ようやく店を出た。



 店を出ても、意外に若旦那は上機嫌なままだった。
 しばらくは佐助が少しばかり足元のおぼつかない若旦那に傘をさしかけてやっていたが、旦那が突然向きをかえたり走りだしたりするものだから、すぐに意味をなさなくなってしまった。糸の切れた凧みたいに飛びまわるのを必死で追いかけるも、酔っ払いのすることは予測がつかない。

 終いに若旦那は吹きだまりの新雪に飛び込んで、ようやく暴走を終えた。重たいぼた雪は踏んだところからすぐに崩れ、泥の混じった水たまりになる。若旦那はその中で上等の着物をぐっしょりと濡らしながら、心地よさげに寝転がっているのだった。
「もう、何、やってんですか」
 息を切らしながら問うた佐助に、若旦那は楽しげに笑って答える。
「きもちいいぞ、おまえもこい」
「風邪ひきますって、もうほら立って」
 腕を取って起こそうとするが、旦那はとろんと目を閉じて立ち上がる気配もない。赤い顔で熱い息を吐きながら、雪の冷たさなど微塵も感じていないように氷水の中で寛いでいる。

「酒はうまいぞ。飲むと、楽しくなる。なあさすけ、お前にものませてやりたい……」
 それだけいやに大人びたようにしみじみと呟かれて、佐助は困ってしまった。奉公に上がったばかりのまだ子供だった佐助を幾度となく宥め、言い聞かせたのと同じ調子で言われると、無条件に従ってしまいたくなる。

「近いうちに、酌み交わそうぞ。おれのおごりだ、うまいさけをのませてやるからな」
 慕ってきた兄貴分の声で言われてしまえば、大人しく頷くしかない。将来の旦那様に馳走していただくなんて、少しの問題を感じながら曖昧に頷いて、今度は柔らかく手を差し出す。今度は若旦那も手を取った。力をこめて引き起こ――そうとしたら、逆に急に引っ張られて体勢を崩す。慌てて踏ん張るが耐えきれず、冷たいしぶきをあげて、ゆるい雪に転がった。若旦那の二の舞だ。

「若旦那っ」
「あはははは」

 佐助が悲鳴をあげるのもどこ吹く風。若旦那は実に朗らかに声をあげて笑った。それがあまりにも無邪気で怒るに怒れなくなってしまった佐助は、さっきから何度目かの溜息を、深々と吐いたのだった。
 この人が大人だなんて、とんでもない幻想だ。こんな迷惑な子ども、他にいるものか。

「うきよのさだめも、ながれようもの……」
 ばか笑いとうって変わった様子の最後の一言も、佐助は腹を立てていたから、ひどく眠たげで舌足らずな呟きは、意味のない戯れ言にしか聞こえなかった。








悩んでること嫌なことはおくびにも出さないおとな旦那とそれに全く気付かないこども佐助にもえていた