真っ赤な陣幕の裏で、真新しい武具に身を固めた主はひどく落ち着かぬ様子だった。ついこの間名を改め幸村とした年若い主の、初めての陣である。
 齢十六、まだまだ伸び盛りゆえ、体格では大の大人にひと回りもふた回りも劣るが、その槍の腕は名のある武将にも引けを取らないと周囲からは認められていた。とはいえ、訓練とは違う、命のやりとりをすることに不安を感じないほど、主は図太くはないのだった。

「佐助」

 呼ばれて、忍は主の前にすとと降り立った。その声は硬くはあったが、忍を呼んだと思わせぬほど情がこもっている。それも道理だ。佐助は形ばかりはかしこまって片膝を地につけながら、敢えて頭を垂れずに主をまっすぐ見上げた。
「お呼びで」
「うむ。……」
 主らしく重々しく頷いた幸村だが、そこでふと言葉に詰まる。実際、特に言いつけるような用はなかったのだろう。不安が高じて思わず呼んでしまっただけ、というのが佐助の見立てで、それはおそらくこれ以上なく正しい。
 本来ならば、主が明確に命を下さねばならぬところだ。部下は沈黙からはなにも読み取らない。深読みをして、そこに誤りがあれば大事である。だが、幸村と佐助の間に限っては、ただの主と部下の関係では表しきれないものがあった。

 佐助が忍として幸村に仕え始めたのは、互いにまだ年端もいかぬ童だったころ、実に十年以上も前のことだ。
 主のおねしょも知っている忍などそうそう居はしまい。忍が一人の主に仕える期間にしては、異例の長さである。
 付き合いが始まったばかりの頃の頑是ない童に、いくら言い聞かせたところで主従にあるべき距離など計れようはずもなく、幼い幸村は屋敷の中では最も年の近かった佐助に何の躊躇いもなくそれはよく懐いた。遠慮なく全力で甘えてくる幼子を突き離すのも面倒で、なし崩し的に幼い主の面倒を見るのも仕事の一つになってしまっていた。

 そうやって兄弟のように育ってきた仲だからこそ、言わずとも佐助ならば汲みとってくれるだろうという、幼い甘えがそこにはある。
 確かに、佐助には幸村が何を思っているのか、己に何を求めているのか、分かる。だが、いかに近しい仲であっても、幸村はあくまで主。慣れ合いをするために雇われているわけではないのだ。ただの忍と主でいるには、いささか長く共にい過ぎたが。


「おれを守れと、命じてくれよ。主人だろ、あんたは」
 胸に秘めるべき言葉を気安く口に出すのを許される。それこそがそもそもの間違いだと、佐助にはもはや気付けなかった。
「頼む」
 幸村は主らしからぬ言葉で答えて、再度佐助を呼んだ。
 思いつめた瞳が揺れる。
 見覚えのある目だ、と思った。月のない夜に厠に付き合えと小さな手を突き出した、幼い主と同じ目だ。

「鬼に、なるぞ。佐助、おれは」

 鬼になる、鬼になる、と、己に言い聞かせるように震える声で繰り返している主は、どう見ても初陣に怯える童だった。
 だから、佐助は幾度となく使ってきた子どもを宥める甘い声音で、若武者の不安と甘えを切り捨てた。

「アンタは、立派な鬼だよ」





 戦歴を重ね、武功をあげて、紅蓮の鬼の異名を持つまでになっても、佐助は時たま初陣のことを思い出す。

 鬼になると言った幸村は、その戦で言葉通り鬼神のごとき戦ぶりをみせた。隙の多い主の背を守り大手裏剣を振るいながら、佐助ですらぞっとしたほどだ。
 その一戦の直後はさすがにしばらく茫然としているようだったが、それを最後に幸村が戦前に弱気を見せることはぱたりとなくなった。
 そしてそれを境に、兄弟のようだった二人は忍と主になった。

 佐助が突き離した戦場で幸村が何を思って槍を振るっていたのか、佐助には分らない。
 案外、容易いと思ったのかもしれない。今や、幸村を頼り立てる者よりも、疎み恨む者の方がおそらく遥かに多い。彼が死んで惜しむ者、安堵する者は数多おれど、本当に悲しむ者はほんの一握りだろう。だからこその鬼の異名だ。
 塵を吹き飛ばすように容易く命を奪っていく主は、まさしくその名に相応しかった。

 このころ幸村は、己よりも主君を守れと命じて独りで戦場にとびだしていくようになっていたが、熱くなると周りが見えなくなる隙の多い戦い方が改善されるでもなく、そのうち誰かに討たれるのだろうと佐助は漠然と思った。きっと、無名の雑兵相手にくだらないどじを踏んで、あっさりと取られるのだろう。そう思いながら、忍はただ命に従い口を挟むことはしなかった。
 その戦は混乱を極めていた。北方との一触即発の睨み合いの最中に第三者に横槍を入れられ、三旗入り乱れての混戦に縺れ込んだのだ。
 佐助は主の命により、本陣近くで事の成り行きを見守っていた。敵味方の区別もつかず、次々に名のある武将の訃報が知らされる中、幸村の率いる別動隊が孤立したと報告が入った時から、薄々予感はしていた。
 だから、伝令がその知らせを持って駆けこんできたときにも、佐助は存外冷静だった。

「真田幸村様、御討死!」

 陣内がどよめくのを、佐助は陰に潜んで聞いた。ああやっぱり、と思うと同時に、思ったより早かったことに拍子抜けする思いだった。彼にとって正念場だったであろうに、こんなにもあっけなく終わるとは、間が抜けたことだ。
 いつかこうなると思っていた。自分の身もろくに守れない癖に、影を連れずに出ていくなど、自殺行為でしかないと最後まで気付かなかったのだ。
 佐助は呆と視線を宙に向けた。次を考えねばならぬ。武田が残れば、大将は真田の忍隊を使ってくれるだろう。差し当たり全力を尽くすつもりだが、そのあてが潰えた時には別の食いぶちを探さなければならぬ。

 淡々と今後を考えているのが胸の表層だけであるのを、佐助は何となく自覚していた。
 今の主についていた時間が長すぎて、幸村ではない者に仕える自分の姿は想像がつかなかった。きっと、真田の旦那以上に仕えがいのある主なんて、この先現れないに違いない。甘えるばかりが能だった弱い子どもが、ひとかどの武将に成長していくのを間近で見ているのは面白かった。
 少しばかり頭は足りないようではあったけど。
 そんなだから、早死にしたけれど。

「やれやれ」
 軽い調子で呟いたはずの声は、意図したよりも平坦に響いた。

 アンタは立派な鬼だよ。最も信頼を寄せられているのを知っていて、怯える子供に吹きこんだ。
 そう言えるだけの力量を備えている確信があったからこそ、諭すように唆した。幸村には、華々しく戦場を駆けて欲しかった。
 はたして主は佐助の見た通り、恐れを知らぬ武人になった。
 幾多の人を殺め数多の命を奪って、死にゆく者の怨嗟の声を目の当たりにしても槍を鈍らせるような愚かはせぬ。それこそが佐助の求めた主で、武田に望まれる武将だった。

 だから、佐助は満足していたのだ。幸村も、周囲に望まれて戦場に立って、満足していたはずなのだ。
 万人の呪詛や怨嗟を一身に受けながら、立ち止まることなく槍を振るい続けていたのだから。返り血に全身を濡らした主は、戦神のように、鬼のように、凄絶に美しかった。だから、佐助は満足だったのだ。

 そう思いながら脳裏にちらつくのは、場違いに無邪気な昔日の主の笑顔だった。








無印の、万事諦めててちょっと冷たい感じの佐助を目指したらこうなった。
情報が錯綜して独り歩きしてるだけで、旦那はちゃんと帰ってきます。