*にせもの注意
玄関の呼び鈴が鳴り、佐助は読みかけの雑誌を閉じた。どうせ旦那が帰るまでの暇つぶしだった。
今日は飲み会があるから遅くなる、と今朝出がけに言われたとおり、そろそろ日付が変わろうかという時刻だ。小走りに玄関に向かうと、幸村が鍵をかけていた。
「おかえり」
「ただいま」
返される声は、柔らかくてどこか熱っぽい。奪うように鞄を受け取ると、酒と煙草のにおいがふわりと漂った。普段煙草を吸わない彼からそのにおいがする時、外で働く彼を改めて感じる。
幸村は珍しくネクタイを緩めていた。普段は上まで止めているシャツのボタンも一つ開いている。いつもかっちり着込んでいる彼の少しの乱れは、本人が思うより遥かに強い色香を放っている。
新人歓迎会だと言っていたが、本人も相当飲んだのだろう。ビールなど水のように飲む彼がほんのりと顔を赤くしている。足取りはしっかりしているが、いい具合に酔っているらしい。
「何か食べる?」
幸村のことだから酒のつまみだけでは足りなかろうと聞けば、うん、と頷いた。
佐助は鞄を部屋のデスクの傍に運び、台所に立つ。幸村は寝室で着替えてくるはずだ。アルコールに重くない程度のメニューを考え、手早く冷蔵庫の中身を組み合わせる。
新卒から勤める会社も今年で5年目。人を育てる立場になった彼は、自分の仕事を片づけながら人のフォローもできる器用さを身につけた。
信頼されているのだろうと思う。宴の席では、元来末っ子気質の旦那は酔いつぶれた人間の面倒を見たがらないが、それ以外ではこれ以上なく頼りになるのを知っている。
幸村との付き合いは、かれこれ十年になる。ひょんなことから恋仲になり、成り行きで今も一緒に暮らしているが、彼の心が本当はどこにあるのか、最近になって佐助には分からなくなってしまった。
昔は幸村の考えることなんて手に取るようにわかった。俺のこと、好き? と問えば、顔を真っ赤にして落ち着きなく視線をさまよわせながら、最後には小さく頷いてくれる。その反応は、下手な言葉よりもその心をはっきりと表していた。
今同じことを聞けば、好きだとあっさり返される。大人になったということだと思う。だが、だから分からなくなる。
職場で彼がどんな人付き合いをしているのか、佐助には知るよしもない。幸村は気付いていないのか何も言わないが、彼に好意をよせている女性も少なくないはずだ。結婚だって、しようと思えば彼の年齢なら決して遅くはない。幸村よりいくつか上の佐助は、三十路をとうに過ぎている。
宴席で緩めたのだろうか。ボタン一つ外したためにのぞいていた鎖骨のくぼみを思い出す。あれが他人の目にも触れたのだろうか。
あまりに遅いから寝室を覗くと、着替えているはずの幸村はスーツ姿のままベッドに突っ伏していた。
「あーもう、旦那ったら」
完全に酔っ払いだ。
「スーツがしわになるよ。ねぇ、起きて」
肩を揺すると、唸りともつかぬ声が返ってきた。うとうとしていたようだ。放っておいたらこのまま朝まで寝てしまうに違いない。
本格的に寝入ってしまう前に着替えさせようとしつこく肩を揺さぶるが、返ってくるのはふにゃふにゃと覚束ない応えばかり。埒が明かないのでスーツの上着だけはがした。きちんとハンガーにかけてベッドの旦那を振り返ると、接待の匂いの染みついたスーツから解放されて緊張がほどけたのか、うつぶせに倒れたまま身動きひとつしていなかった。
「ねえ、飯の支度、できてるんだけど」
うん、と微かに頷く態度は上の空だ。食べると言うから手早く作ったのに、今晩はもう動く気はないらしい。まあ温かい料理ではないから、ラップをかけて冷蔵庫に入れておけばそのうちどちらかが食べるだろう。
幸村の傍らに肘をついて横になる。会社のにおいがまたふわりと匂った。髪に染みついているのだ。柔らかいそれに指をさしこんで、ゆっくり梳いてやる。閉じた瞼が開く気配はない。髪を括る紐を解いてやると、またひとつ枷が外れたように息を吐いた。
よいしょ、と仰向けに転がして、半端に結ばれたままのネクタイも抜いてやる。丸一日彼の首元を絞めていた絹の帯からも、煙草と他人のにおいがした。ボタンを外すのは、さすがに妙な気分になりそうでやめておいたが、幸村の匂いを求めて首筋に鼻を寄せる。
他のにおいと混じりながらも微かに慣れた香も匂い立った。
「ん」
くすぐったかったのか、幸村が目を閉じたまま身じろぐ。構わず首筋に鼻先を押し付けるようにすると、微かに笑ったようだ。
ベッドの上に投げ出されていた片腕がいつの間にか背に回って、抱き寄せている。そのまま抱き枕のように抱き込んで寝る体勢になろうとするから、強引な肩をべしりと叩いて抜け出した。
不満そうな薄眼で睨んでくるのを見下ろす。酒のせいで蕩けた視線は、子供じみた行動もやたらと色っぽく見せる。
「さすけ」
腕を引かれるのに逆らえば、ぐずるようにますます力を込めてきた。だがしばらく踏ん張っていると力尽きたようにするりと手が離れる。佐助を抱き込むのを諦めた幸村は、すぐに寝息をたてはじめている。それが少し寂しい。
こうやって帰りが遅い日には、まともな会話もないまま一日が終わってしまう。それぞれの仕事があるのだから、四六時中一緒にいることはできないのは分かっている。しかし、どうにもやりきれない気持ちになるのは抑えられない。
襟から覗く鎖骨。無防備に投げ出された肢体にそっと触れてみる。薄いシャツ越しにも伝わる体温は、佐助のそれより高い。誰かがこの温もりに触れたのだろうか。
「旦那」
緩く上下する胸に手を当てる。この胸に、宴の席で羽目を外した誰かがしなだれかかったりしたのだろうか。
大人になった彼は、笑ってそれを許すのだろう。そして、決して佐助には話さないのだろう。
安心しきった寝顔はいつもならたまらなく愛しいものなのに、ほんのり上気した頬が、漏れる熱い吐息が今はひどく憎たらしい。
いっそ、自分の物だと言う印を刻んでしまえばいいのだろうか。形のあるものなどあてにはならぬ。恋人が交わす指輪を、下らぬと一笑に付したのは自分だった。
「……だんな」
呼びかけに僅かに寝息が乱れた。
その吐息ごと飲み込むように、熱い唇にキスをした。
やらかした。楽しかった。
実はこの後えろも書いてたり書いてなかったりしたけど、なんだかうまい具合にまとまったから切り捨て。需要があったら上げます。