佐助は困っていた。
戦場での仕事帰り。山間の戦闘は大規模にはならず、死傷者も数えるほど。例の如く先陣を切って敵の最中に躍り出た虎の若子を回収した帰り道だった。戦場では足場の悪い斜面を物ともせず、めざましい働きぶりをみせた主は今、斜面に立つ木にしがみついて一歩も動けなくなっている。
状況を確認しよう。佐助に抱えられ戦線を離脱した後、山間で長距離を飛ぶわけにもいかず、山腹で地上に降りた。自分で走れると言うから、幸村の足に合わせて道のない急斜面をよじ登るように進んでいたのだが。
取落とした槍を追って振り返って、どんな急斜面をどれだけ高いところまで登ってきたかを自覚すると急に足が竦んでしまったようで。
「むっ、……むりっ、むりでござるぁぁああ!!」
終いには木にしがみついて、しゃがみこんでしまったのだった。
佐助の足取りばかりを追っているときには何の苦もなく進めていたはずの道も、気付いてしまうと恐怖は消せないらしい。佐助も正直この傾斜はいささかきつい。そんな中ついてくるのはなかなかのものだと思っていたのだが。足腰の強さなら、体力だけは人並み以上にある旦那のこと、足りないはずはない。問題は心の方だった。
「旦那、俺の手につかまっていいから」
言って手を差し伸べれば、へっぴり腰でそろそろと進もうとするのだが、足もとが崩れてまた木にしがみつく。その度に恐怖がつのっていくようで、ますます慎重になる。そんなに腰が引けていたら余計に滑るのだが、怖がっている人間にそんなことを言ったところで改善できるはずもない。
「動けないならおぶっていってあげるって」
「さようなみっともない真似ができるかぁあ!!」
それを言えば木にしがみついて動けなくなっている方が大概みっともないと思うのだが、本人には全く自覚はない。
差し出されている手が見えないわけもあるまいに、佐助の手につかまろうとせず、敢えて地面に縋って来ようとしている。多少崩落の可能性があっても体を支えてくれる地面と、その不安定な足場で自身も落ちる可能性を持つ佐助とでは、前者の方が確実と思うのも無理はない。その気持ちもわからぬでもないが。
(そんなに俺様が信用ならんかね)
少々不服ではある。
「じゃあ、俺が立ってるとこまで来な。それくらいはできるでしょう」
言ってその場を退き、自分はさらに足場は悪いが、いつでも主を支えられる位置に移動する。幸村は目指す場所ができ、そこまで行けば安定した足場を得られると分かると、片手を地面につきながらそろそろと木の陰から足を踏み出した。斜面に体を添わせるほど足元が崩れやすくなることは念頭にない。案の定、いくらも進まないうちに。
ずりっ
「ヒッ!?」
足元の小石が転がり、足を滑らせた幸村が、枯葉や枝を巻き込んで盛大に滑り落ちていく。
まあ、この柔らかい土だ。下まで落ちても並はずれて頑丈な旦那のこと、道中木の幹に体をぶつけるかもしれないが死にゃあしない。ただ、下まで滑り落ちた旦那を回収に行くのもまた面倒だ。
片手で体を支えながら身を乗り出して、旦那の腕をしっかと掴む。衝撃に掴んだ枝がしなったが、折れることはなく二人の体重を支えてくれた。力を込めて引き上げると、それまでの反抗が嘘のようにすぐさま首にかじりついてきて、耳元で情けない泣き声が上がった。
「うううう、さすげぇぇぇ」
「はいはい、怖かったね」
あやすように背を叩いてやりながら、佐助は内心で舌を出した。あそこはきっと崩れると思っていた。あえて教えてやらず、あえて滑り落ちかけるのを見過ごして、あえて辛いところを助けた。
(だって、旦那が)
素直に頼ってくれないのが悪いのだ。戦場ではあれほど信頼して全てを任せてくれるというのに、それ以外では変な意地や見栄を張っているから。いつだって、よりかかってくれれば支えきる自信があるのに。
もう自分で歩く気が失せたらしい幸村を遠慮なく抱き上げて、軽々と傾斜を飛び越える。両腕にかかる重み、首にしがみつかれる息苦しさまでが嬉しくて、佐助は一人ほくそえんだ。
(全部、ゆだねてしまいなよ)
(そうすれば、俺が全部やってあげるから)
旦那高所恐怖症にうっかり萌えた結果の黒佐助。
有り得ないのは分かってる。