市は白無垢に身を包み、六畳ほどの控えの間で、人形のように座っていた。じきに人が来る。婚儀の場へ連れていかれるのが、市にはひどく怖ろしかった。
浅井との縁組を告げられてから、今日までの記憶はひどく曖昧だ。不安ばかりがずっと胸に巣食っている。
濃姫様はお優しい。蘭丸君も可愛い。けれどそんな温かいものも、たった一人引き離されて遠い所にやられてしまうのなら、始めから知らない方が良かった。
本当にやっていけるの?
自問して、すぐにかぶりを振る。やっていけないに決まってる。市を受け入れてくれる場所なんて、どこにもないのだから。誰からも畏怖される、兄様の元以外には。そしてその兄のもとへ帰ることは、きっともう二度と許されない。怖ろしい兄様。役立たずの自分には、魔王に逆らうことなどできるはずもない。
(きっと、これは死装束なのね)
純白の着物を見下ろして思う。この身が朽ちるまで織田と浅井の縁になれと言っているようだ。
「お市様。こちらへ」
音もなく襖が開き、案内役らしい女性が頭を下げた。市は覚悟もつかぬまま、ただ人形のように頷いた。
市が姿を現すと、座敷の左右に鎮座した家臣たちがどよめいた。しかし純粋な賛美の声も、心を閉ざした市には届かない。
初めて見る花婿は、なんだか怖そうに見えた。端正な顔をしているが、眉間にはしわが寄っているし、唇は真一文字に結ばれてにこりともしない。それに、血色のいい頬には赤みが差して、袴の膝で震えている拳が今にも怒り出しそうな雰囲気を醸している。魔王とも違う、強烈な陽の存在感に、それだけで市は気圧された。
(怒らせないように、しなくちゃ……)
嫌われないように。捨てられないように。
市にはもう帰る場所はない。婚礼によって縁を深め、いずれは織田に吸収する。魔王の妹が嫁に出されるのは、そういうことだ。目を伏せたまましずしずと婿の正面まで進み、きちんと両手を揃えて畳につく。
「織田信長が妹、市でございます」
「我が妻になる者が、なんだその言い様は! もっとはっきりものを言え!」
その言葉も終わらないうちに婿が突然声を荒げ、市はびくりと身を縮めた。なぜかわからないけれど、怒ってる。どうしたら。
「あ、あの……ごめんなさい……」
「謝るようなことではないだろうが!」
消え入りそうな声で謝ろうとするとまた尖った声で怒鳴られて、ますます小さくなる。
怯えておられる、と家臣の一人に指摘され、婿は気まずげに眉を寄せた。市は顔を上げることができない。もう嫌われてしまった。居場所がなくなってしまう。涙で目の前が曇る。にわかに座敷じゅうが慌ただしい雰囲気に包まれる。姫さまが、長政様、と家臣たちが騒ぎたてる中、婿が「ええい、黙れ!」と怒鳴る声ばかりがはっきり聞こえた。
「めそめそと泣くな! 貴様も武家の女だろう!」
その声は怒っているというよりひどくうろたえているようだったが、大声に市はまた怒鳴られたものと思って身を竦める。ごめんなさい。武家の女のくせに泣いてばかりで何もできなくて。ぜんぶ市が悪いの。
ざわめきもが市を責めているように感じる。嫌われないように頑張ろうと思ったのに、きっともう手遅れだ。市を好いてくれる人なんて、いるわけがない。
突然、花婿が立ち上がった。ずかずかと市の目の前までやってきて、おもむろに手を上げる。ぶたれる。そう思って咄嗟に身を固くした。しかし婿はずいぶん長いこと手を宙に浮かせたまま躊躇い、ようやく白無垢の肩にそっと触れた。乱暴な物言いとは裏腹の、まるで壊れ物を扱うような優しさに戸惑う。
「浅井、さま……?」
また何か気に障ってしまったらしく、市の呼びかけに婿はキッと眉を吊り上げた。
「今日からお前も浅井の者なのだぞ。そんな呼び方があるか!」
「ご、ごめんなさい……」
「一々謝るなと言っている!!」
「ごめんなさい……」
何を言っても怒鳴られる気がして、謝る声がだんだん小さくなる。そんな花嫁に、婿は深々と溜息をついた。そんなことにもびくついてしまう。
「長政と、呼んでみろ」
初めての怒鳴り声以外の言葉に、市は恐る恐る顔を上げた。目が合ってしまい、咄嗟に顔を背ける。何度か口を開きかけて躊躇う。その度に早くしろと怒鳴られるかと思ったけれど、じっと待ってくれていた。
「ながまさ、さま……」
おずおずと言われた名前を唇に乗せると、若婿は怒った顔を少しだけ緩めた。それだけでずいぶん印象が違う。微妙に視線をそらしてくれたおかげで、市はようやく婿の顔をまともに見ることができた。
ずっと険しく寄せられていた眉は、顰めていなければ形よく凛々しい。今は逸らされている双眸には強い意志がうかがわれる。市にはない強い光。対極にいる自分には、いくら焦がれても決して与えられないもの。
(温、かい……)
肩に置かれた手に目を落とす。伝わってくる温もりが、離れがたく思われた。でも、きっと、だめ。市にこんなまぶしいお人は釣り合わない。冷たい闇の底で、たった一人で蹲っているのが、罪深い魔王の妹にはふさわしい。
深淵に意識が沈みかけたとき、温もりが両肩に増えた。
「市。お前は、私の後ろにいればよい」
今までで一番柔らかい、真摯な声音。
驚きに目を見開いて婿様の顔を見上げると、一瞬ばちりと視線が絡み、すぐに向こうからそらされた。お顔が夕日に染まったように赤くなっている。言われたことが信じられぬ心地でまじまじとその顔を見つめる。
(ここにいても、いいの?)
(守って、くれるの?)
「よいな! 離れたら承知せんぞ!」
怒鳴りつけるように言われて、また「ごめんなさい」が舌の裏まで転がり出かけた。この場面にその言葉は相応しくない気がして、どうにか飲み込む。
(長政さまの、お傍に……)
いたい、と思った。許されるならば、もう少しの間だけでもその光を見ていたい。許されたい。
「はい。……市、がんばる」
怒らせないように。嫌われないように。そうやって縮こまっていようと思っていたけれど。
小さな声でもはっきりと頷いた市の胸に、ささやかな変化が訪れていた。
お傍にいられるように、がんばろう、と。
初書き浅井夫婦。地味に大好きなんですこの二人……! そしてひな祭り関係ない。
白無垢を着るのは花嫁だったか死人だったかしょっちゅう分からなくなります。死人が着るのも白装束だけど白無垢とは普通言わない。
婚儀の間、花婿と花嫁は言葉を交わしちゃいけないとかいう噂をどこかで聞いたような違うような。……今更ですね。